2007年12月26日

日露講和斡旋の意図

日米抗争の史実2

今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は日露講和交渉の模様
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引用開始
 日露戦争が始まって、我が国の連戦連勝に驚異の眼をみはったルーズベルト(セオドア)は、初めて日本の底力を意識し、日本海海戦後の七日目、即ち明治三十八年六月二日に、駐米露国大使カシ二―伯と駐米日本公使高平小五郎とに戦争調停の意を伝え、超えて六月八日正式に両国政府に向って一の照会文を送ったのである。その文意は、『今や人類一般の利益のために、目下の惨憺たる痛嘆すべき戦争をせしむることが出来るか出来ぬかを見るために努力すべきときが来た。合衆国は久しく日露両国と友好関係を保って来た。合衆国は両国の繁栄福祉を祈ると共に、この二大国民間の戦争により世界の進歩が阻害せられることを切に感ずる。故に予は両国政府に於て両国自己のためのみならず、また文明世界全体の利益のために相互に直接の講和談判を開始されんことを切望する』と云うのであった。
 これはルーズベルトの炯眼であって、よく日露両国の極東に於ける将来の関係を洞察し、米国の東洋政策遂行上の障碍を最小限に喰い止めんとした働きと観られるのである。

 当時米国の立場から云えば、日本にせよ、露国にせよ、一方が起つ能わざるまでに傷つくことは、とりもなおさず他の一方が非常に優勢になると云うことになるので、これは極東に於て恐るべき米国の敵を造るゆえんである。なかんずく日本が大局に於て疲れ果てて露国が極東にその羽翼を伸ばすようなことがあっては愈々以て米国の邪魔となる。だから米国はなるべく両方が余り負けない程度に、そして相当に疲れた機会に調停を試みなければならない理由があったのである。その活機を掴んだのがルーズベルトである。・・・・
 この講和会議に於て注意すべき事は、米国人の対日感情の変化である。ハリス以来常に我国に対して友好の感情を続け、むしろ欧州列強の横暴なる申出を掣肘してくれたくらいの米国であったが、日清戦争に於て日本の国際的勢力を認め、国務郷ヘイの宣明と、ハワイ、フィリピンの併合によって一層極東に関心を持った米人には、この日本の戦勝を単なる日露間の問題と考えるには余りにその権勢欲、膨脹欲が強かったのである。プライスの云った通り、米国の生活に於ては群集精神がその主力をなすものである。その交通網の拡張と資源開発の増進と商工業の発達と国富急進の趨勢に置かれた米国人に、どうしてこの東洋の大市場を閑過させよう。殊に上に立ってこの大勢を指導し、煽動するに最良の勇者ルーズベルトを得たのであるから、彼等こそ積水の堰を切ったような心持を以て、極東方面を観察していたに違いない。

 ここに突如として雄大なる海軍国が現出して、朝鮮満洲にその双翼を拡かんとしたのであるから、彼らの嫉視と、反感と冷情とを誘発したのは決して無理ならぬ自然の勢いであったと考えねばならぬ。いわゆる門戸開放、機会均等の外交的成功に、新たなる一大障碍として日本を視んとしたのも、まことにいわれのない事ではない。・・・・・
 米国は日露講和条約の宣明ばかりでは尚不安を感じたのであろう。米国の鉄道王ハリマンを慫慂して、小村全権の帰朝以前に南満鉄道乗っ取りの計画を企てたのである。これより先ルーズベルトは日本応援の代償として、将た門戸開放の保証として満洲の中立を提議したのであるが、日本の抗議を諒としてその議を撤回はしたが、ルーズベルトが果して自説を捨て切りにしたかどうかは、頗る疑わしいのであった。・・・・
 当時ハリマンの頭の中に描かれた計画は先ず南満鉄道を日米共同経営の名によって自分の手に収め、東清鉄道を買収し、シベリア鉄道の運輸権を獲得し、かくて自分の経営せる太平洋汽船航路と連絡して、米国主権の下に世界一周の交通路を管理し、これより生ずる未発の富源に最上の獅子の分け前を取らんとするのであった。・・・・
 当時の元老中、井上伯は露国の復讐を憂い日本が直接満洲を経営するよりも、米国を満州に引き入れて日露両国の緩和剤とした方が有利と考えた上、最も望みを米国資金の輸入に嘱していたから、極力ハリマンの意見に共鳴して、内閣諸公にその賛成を促したのである。・・・・(ハリマン)は遂に三十八年十月十二日桂首相と予備契約を締結するまでに漕ぎ付けた。

 ハリマンの日本を去って三日目に小村全権は米国から帰朝した。乗船ダコタが横浜に投錨するや否や、南満鉄道日米合弁の事情を聞いて、大いに政府の失態を怒り、帰京匆々諸元老大臣間に立って、その解約を力説し、遂に廟議を変更せしめた。小村外相は法律上満鉄及び付属財産の譲渡は一応支那政府の承認を経なければならぬこと、また政治的には二十一万の死傷と二十五億の大金とを犠牲に供して、わずかにかち得た南満鉄道を、米国資本家の利益のために合弁するとは到底許さるべきでないこと、またもしこの計画が暴露して国民の耳に達したとしたら、たださえ講和条約の不満を訴うる国民は、どんな大事を勃発さすか判らないこと等の理由を力説したので、元老諸大臣も皆小村外相の意見に賛成して新たに解約の肚をきめたのである。・・・・
 これでハリマンの大計画はその幸先を折られ、一時全くの頓挫の形となった。ハリマンの憤懣は非常なもので、会う人毎に満腔の不平を洩らしたのは云うまでもないが、特に米国人の間には、日本は一旦米国の希望を容れながら、後これを取消すのは不都合である、宜しく契約の履行を迫るべきであるなどの議論も出で、日米戦争の予測さえ発表するものが出きた。このハリマン事件は、独り彼等一派の憤懣を買ったばかりでなく、米国資本団及び米国政府に非常な不安と不平を醸成するの因となり、日米外交史上に重大なる転機をもたらし、そこに日米反目の強き第一印象を残したのである。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の戦争
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