2006年06月21日

公使夫人の日露戦日記1

「ベルギー公使夫人の明治日記」エリアノーラ・メアリー・ダヌタン著
 著者は、ベルギー王国弁理公使として東京に着任した夫のアルベール・ダヌタン男爵と共に1893年[明治二十六年]10月2日来日しました。
 翌年アルベールは特命全権公使に叙せられ、在任中、東京の外交団首席を七年間務められ、1910年[明治四十三年]、東京で逝去されました。
 夫人は英国人として生まれ、夫君と同じく、わが邦の国民を完全に正確に評価しておられ、国民もまたご夫妻に親愛の情を抱いていた。
 ここでは、沢山の日記の中から日露戦争の頃に夫人が書かれた日記を何回かに分けて抜粋してみようと思います。
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 引用開始
 1903年[明治三十六年]10月9日
 日本とロシアは開戦前夜の状態にある。どうすればそれを回避できるのか判断することは難しい。ロシアは今までの約束にもかかわらず、満州の占領を諦めようとする気配がない。・・・略・・・日本はかなり喧嘩腰でひどく憤慨している。ロシアは日本がはったりをかけていると思っているが、彼らはそのことを思い違いしている。日本がこの上なく真剣だということは一点の疑いもない。

 1904年[明治三十七年]2月6日
 久しく戦争の暗雲をはらんで、今か今かと懸念されていた危機が遂に現実のものとなった。今日アルベール(夫のベルギー公使)がローゼン男爵(ロシア公使)に会いに行くと、彼は外務省から戻ったばかりだったが、外務大臣の小村男爵が、日本政府はロシア駐在公使の栗野慎一郎氏をペテルブルグから召還する予定だとローゼン男爵に通告したそうだ。それと同時に小村男爵は、ローゼン男爵とロシア公使館の館員一同に、できるだけ速やかに日本を離れるように要請したという。ローゼン男爵はアルベールに落着いた口調でこう話した「これは当然の帰結ですな」。
 アルベールは可哀そうな男爵夫人をちらりと見かけたが、彼女の顔には悲歎の色が浮かんでいた。アルベールはすぐに公使館へ戻って、本国政府に「日本はロシアと国交を断絶した」という趣旨の電報を打った。・・・略・・・

 1904年[明治三十七年]2月7日
 昼食のあと、私たち二人でローゼン男爵夫人に会いに行った。彼女は思ったより落着いていた。彼女はこの戦争は、三年は続く必死の戦いになるだろうと言った。・・・略・・・彼女は一所懸命に自制していたが、私には彼女がとても悲しんでいるのが分かった。 一方クダチェフ公女(ロシア公使館一等書記官クダチェフ公爵の妹)のほうは、彼女が私にちょっとした頼み事をしてからお互いにお別れを言って抱き合ったとき、気の毒な公女の頬を涙が流れ落ちた。私たちは彼女とその兄が大変好きだったし、二人とも大の日本びいきだったので、彼らを本当に可哀そうだと思った。
・・・略・・・

 アルベールは事態を全く的確に見通していた。彼は日本が真剣であり、最初から本腰を入れていたことをよく承知していたので、本国政府に絶えずそういう趣旨の報告書を書いていたのである。これに反してその他の人の多くは、最後の瞬間まで日本は虚勢を張っているのだと思っていた。

 1904年[明治三十七年]2月10日
 日本政府の外交問題顧問のデニスン氏に路上で出会った。彼は今受取ったばかりの日本軍がロシアの軍艦二隻を済物浦(現在の仁川)の港外で撃沈したというニュースを聞いて、ひどく興奮していた。
 ロシアの軍艦は港外に出たとき、日本軍の「いざ、きて戦え」という信号を見た。日本軍はその通り実行したのである。その後さらにニュースは続く。日本軍に投降することを拒んだロシアの軍艦は自沈の道を選び、乗組員はフランスの軍艦に救助された。これが日本軍にとって最初の勝利であった。
 二度目の日本の勝利は、真夜中に旅順とロシア軍艦の間に日本の軍艦が入り込んで、ロシア艦二隻を魚雷で撃沈し、もう一隻を大破して座礁させたことである。これによって哀れなロシア軍としては全部で五隻の軍艦を失ったわけで、一方済物浦で日本の水兵は唯の一兵も戦死しなかった。今や旅順港外で激しい戦闘が行われているということなので、今夜にもその結果がわかるだろう。・・・略・・・
 
 1904年[明治三十七年]2月15日
 日本の新しい軍艦二隻(一等巡洋艦“日進”と“春日”)を回航してきた英国の海軍軍人を、歓迎する準備が大がかりに行われている。この出来事に対する熱狂ぶりはすさまじい。二隻の軍艦は既に横須賀に到着している。

 1904年[明治三十七年]2月19日
 日本軍は十四日に旅順で再び勝利を得た。攻撃は真夜中に激しい吹雪を衝いて行われ、駆逐艦二隻が真っ暗闇の中でロシアの軍艦二隻を損傷させるのに成功した。彼らの行動は終始極めて勇敢であった。日本軍は、ロシアの軍艦から砲火を浴びせられたが、敵艦の爆発音を聞くまで撤退しないで留まっていた。日本側の損害は皆無であった。
引用終わり。

 この日記は、日露戦争の十年前くらいから始まっていますが、今回はその中で、日露大戦の頃に書かれた部分を引用しています。
 大戦の行われているその時の日記なので、大変興味を持って読みました。
posted by 小楠 at 09:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
この記事へのコメント
日記は臨場感溢れていて勉強になりますね。
こんな立派な記録があるのに日本人はあまりにも何も知らされていない、知ろうとしない癖をつけた教育は間違っていると思います。私も今、始めて知りました。
Posted by ケイさん語録 at 2006年06月23日 15:52
この本、今では絶版なので手に入り難いのですが、再版すればいいのにと思える本です。
左翼反日はいやがるでしょうけどね。
Posted by 小楠 at 2006年06月23日 16:48
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