2007年12月22日

宮中のお雇い外国人7

新嘗祭(米の収穫祭)

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は東京のモール邸
mole.jpg

引用開始
 毎年、米の収穫に対して感謝し、神に供物をささげる大祭が十一月二十三日に行われる。これは国家神道の首長としての天皇の伝統的な地位が、特別にはっきりと表わされる古来からの日本の宗教的な祭儀である。
 この祭儀は皇居内宮殿近くに建てられた、天皇家の宗教である祖先崇拝つまり神道のための神殿賢所の中で常に行われてきた。部外者はけっして入場を許されない。この文章の執筆者であるわたしが祭典のいくつかに見学者として参列することができたのも、もとはといえば、私が宮中勤務者の一員であったからだ。
 これらの宗教的祭典の中でもっとも重要かつ盛大なのは、毎年十一月二十三日に行われる米の収穫感謝のための祭典、新嘗祭である。米は日本人の主食である。したがって以前からこの祭典は重要視されてきた。祭典は二部にわかれて行われ、第一部は、夕方おそくなった午後六時に始まり、午後十時に終了する。次に第二部は、午前零時頃から翌日の午前二時までつづけられる。

 古代日本の伝統ある白羽二重の神主の衣裳をまとわれた天皇は、帽子がやや単純という点だけは違うものの、天皇と同じような白羽二重の衣服を着た宮中の神主たちをまわりにめぐらされた。天皇が加わられた行列は荘重に、一フィートばかりの高さの燭台でぼんやり照らされた宮殿の長い回廊を進む。行列の先頭には、神鏡、神剣、それに国の印章あるいは神聖な曲玉が担われてゆく。ついで行列は皇居内神殿に向かい、柔らかい畳敷きの特別の廊下を進む。天皇がお供の神官たちといよいよ神殿に到着されると、すだれが垂れ下がる。宮家の各親王、閣僚、将軍、高位高官、宮中の官僚は、百年もの樹齢をもつ御苑の古木の下に建てられた露天の行廊に、神殿と相対して立つ。――洋服の制服、軍服姿の一同は盛装している。
 木造の神殿を取り巻く四本のきらめく燭台の火によって側方から照らされている芝生の上で、宮廷音楽師たちは、いずれも古式ゆかしい色彩豊かな衣裳に身をかため、あるときはするどい音、またあるときは太鼓をたたくような鈍い音を奇妙に長々と演奏していた。色とりどりの絹の上着、ひだの多いあざやかな赤い袴をはいた宮中の女召使や神殿の巫子たちは、白木の器の中に、米をはじめ祭儀の供物に定められた食品を入れ、私たち部外者にはけっしてうかがい知ることのできない神殿内部に運んでいった。


 月光の下、そそり立つ神殿の屋根は芝生の上に影を落としていた。きらめく燭台の前には神殿の従者が身動きひとつせずしゃがみこみ、その火が絶えないようにつとめていた。彼らはいずれも純白の衣服をまとっており、全員十分交代で勤務することになっていた。
 後方に陣取る楽師や宮中の従者の華麗な衣裳は神秘的な印象を与えた。私は思わず日本の奇妙な屏風の絵を想起した。こうした絵はしばらく凝視したあとやっとその真意を理解できるようになるのだ。
 神殿の扉の前のカーテンがいくらか掲げられるまで広い歩廊の中にいた高位高官ら招待客は立ちずめであった。参列した日本の臣民たちは一人一人歩を進め、もっとも神聖な社の前で祈祷すべく深々と頭をさげた。
 十一月の夜、帽子もかぶらず、オーバーもまとわず、制服や軍服姿で屋外で立ちつづけるわたしたちにはさすがに寒さが身にしみた。そのため参列者の間のあちこちに手をあたためるための火鉢が置かれていた。
 十時、天皇ご一行は宮殿に戻られることになった。そして参列者一同も歩き出したが、そのさい純白の絹の衣服をまとった廷臣に囲まれ、キラキラ光る金屏風を背に古式ゆかしく畳の前に正座された天皇の姿をお見受けした。招待客たちは、その後、別室で和食のごちそうにあずかった。わたし自身は祭儀の第一部を十分見学できたので、真夜中まで続く次の祭儀を見ずに帰宅した。他の参列者の話によると、第二部も第一部と全く同じであったという。
 類似の宗教的催しは、ほとんどの場合、早朝すべての重要な祝祭日や国家的な行事の開始前に行われた。

 この頃、東京で行われた他の行事では、私とフォン。シュタイン博士が参列した三島警視総監主催の行事が特記に値しよう。数百人の客が招かれ、天覧の光栄に浴したこの行事には、日本の古式ゆかしい剣道の試合もあった。まずはじめに少人数の試合、続いてやや大勢の、そして最後にはきわめて大がかりな試合があった。その際四百人のサムライが敵の旗を奪取しようと争った。これはきわめて興味深い戦闘であり、このことからも、いかに多くの日本人がいまだに正統的な剣術にはげんでいるかがわかった。そのあと相撲が行われた。油を体中に塗りたくった裸の巨漢の争いは、はなはだ見苦しい光景であった。この日の行事は洋式の宴食で幕を閉じた。・・・・

 冬の到来とともに政府の建物である鹿鳴館の中で、日本の紳士、淑女のためのダンス教室が開かれた。洋風の社交形式と身のこなし方をおぼえるために、日本の高位高官の令嬢たちがしきりにここを訪れた。こうした催し全体はヨーロッパ人にはいかにも退屈な印象を与えた。私たちもしばしば鹿鳴館を訪れ、ここで日本の友人たちとよくめぐり会った。
 このほか冬には多彩な社交上の催しがあった。外交上の、あるいは内閣主催の晩餐会への招待が相次いだ。横浜の停泊地にドイツ帝国海軍砲艦ヴォルフ号が入港したり、皇后に贈られるロシアの聖エカテリーナ勲章が到着したりするたびごとに外交官の祝宴が開かれた。
引用終わり

posted by 小楠 at 07:18| Comment(2) | TrackBack(1) | 外国人の見た日本A
この記事へのコメント
ケイ様
お久しぶりです。
その後の更新はまだですか、お待ちしています。
中国通青木氏のURL有難うございます。
私もこの方の番組はいつも桜で見ています。
裏がわかって大変参考になりますね。
Posted by 小楠 at 2007年12月23日 13:40
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