2007年12月21日

宮中のお雇い外国人6

最後の将軍と天皇誕生日

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は鍋島侯爵と夫人
nabeshima.jpg

引用開始
 (静岡から箱根へ)
 広い安倍川にかかる橋を渡ったあと、私たちの一行は、空の人力車をあとに従え、別当という名の先駆の車夫が引っ張る三輪の人力車には絹製の日除け帽をかぶり、驚くべきほど優雅に洋服を着こなした紳士が乗っていた。彼は確かに私たちを見たはずだけれども何の注意を払う様子もなかった。
 政府秘書官にたずねたところ、この人物こそ元将軍であったことがわかった。誤って世俗的皇帝といわれた将軍が、往時の日本では五百人の武装したお供を従えずに国内の街道を移動することなどなかったことを考え合わせると、こんどの巡り合いは全く驚くべきであった。伝えられたところらよると、彼の生活ぶりはまさに田舎の貴族そのものであった。 彼はおのれの領地に住み、毎朝、日本の大新聞のすべてに目を通し、あらゆる事情に通じていたが、実際に政治に介入するようなことはなかった。午後、彼は運動のために、夏は自転車に乗り、冬は狩に出かけた。彼の精神的能力はたいしたものらしい。彼は日本の親族法と慣習に従い以前のすべての権力を完全に放棄し、隠遁生活をしていた。

 私たちに同伴した日本人諸君は、かつて日本の最大権力者であった将軍をまのあたりに見て、不安と動揺を隠さなかった。静岡県知事は元将軍の日常生活や態度に注意を怠らないよう命ぜられていた。その頃、元将軍自身が支援したり、激励したりした事は全くなかったけれども、彼を担ぎ出そうとひそかに策動している連中が日本にいたことを忘れてはならない。徳川家の当主で財産の相続者である彼の後継者は、東京在住の彼の甥、徳川公爵で、勅令により日本第一の華族となった。現代のヨーロッパ人で元将軍を見る機会に恵まれた者はだれもいない。そういうことからしても、偶然に彼と会ったことは、実際に私たちの滞日中のきわめて注目すべき出来事であった。
 かつての日本の支配者が隠居所に選んだすばらしい地域、青い海原、雪の冠をいただく雄大な富士、それに爽快な小都市静岡の姿は公園のただ中にそそり立っている浅間神社の丘から実によく眺められた。私たちは夕方、帰りがけにきわめて優雅ではなやかな庭園に囲まれ、色とりどりの提灯に照らされた多くの料亭を見物した。座敷では金色の襖を背景に青や赤の美しい衣裳を着た芸者や踊り子が身動き一つせず座っていた。まだ青年官僚といってもいい年配の知事が私たちを旅館まで案内した。夜は元将軍や時代の動きについて私たちは楽しく語りあった。

天皇誕生日
 十一月三日に執り行われる天皇誕生日の祝祭の準備がいよいよ始められた。秋晴れの天気はすがすがしく、東京の守備隊の大分列行進で始まる国家的な祝祭にとって都合がよかった。
 私たちはそれぞれ制服や軍服を着用し、招待客や見物人がしだいに集合してきた観兵式場の天皇の天幕に向った。とくに人目を引いたのは予備騎兵大尉としてきらびやかな近衛驃騎兵連隊の軍服を着用したフォン・ホルレーベン・ドイツ公使が、竜騎兵の軍服姿のフォン・シェリング副領事に伴われ、馬車で進まれる天皇のお供として騎乗してきたときである。閲兵のため天皇は馬車の中で立ち上がられた。いつも乗馬をなさっている天皇がなぜこの機会に騎行される習慣がないのか、私にはいまだにわからない。それはおそらく天皇のお出ましのとき、常にお供をすべき侍従長や宮内相が騎行できないからであろう。民間人の大礼服を着ているこの二人の廷臣はドイツ人の目には異様に映った。観兵式には軍人のお供をお連れになった方がより適切ではなかろうかという私の指摘に対し、天皇は、すぐに海軍の軍服を着て参列されていたお若い有栖川宮威仁親王に同伴を求められた。威仁親王は前述の二人の代わりに天皇の馬車に同乗され、天皇と向かい合って着席された。軍隊の分列行進は、参観したプロイセン将校の判断によると、ヨーロッパ以外の国の軍隊としてはたいへんすぐれており、騎兵の行進もかなりのできだし、砲兵の行進はとくによかった。
 早朝行われた観兵式のあと、宮中では数時間、長蛇の列をつくって行われたいかめしい天皇へのご挨拶が始まった。私も他の宮中勤務者とともにうやうやしく天皇のお傍に赴いた。私の就任時の謁見以来、天皇をこんなに近くでお見受けしたことはなかった。・・・・・

 天皇ご自身は日本の勲章を飾った大元帥の軍服を着用されていた。そのあとただちに宮中の宴会場で、外国公使、代理公使、それに宮中および政府の高位高官、すなわち最高級の参事官までを含めた人々が参列するおごそかな和食昼食会が開かれた。招かれた客は、それぞれ刺身、栗、きのこなどを並べた和食の膳の前に座り、おかんした酒を酒盃にそそいでもらった。もしこれらの料理を自宅へ持参したい者があれば、備え付けの紙に包み、傍に置けばよかった。菊花のご紋章入りのきわめて精巧な、まるで透き通るような陶器でつくられた酒盃を、だれでもこの祝祭の記念品として持ち帰ることができた。ミカドの誕生日のすがすがしい思い出を家族一同の中に保持してゆくためにも、これは全く魅力的な風習であった。
 昼食会が進んでゆくうちに外交団の中の最年長者、今回は清国公使が各国の元首の名において、フランス語に翻訳された祝辞を述べると、天皇が立ち上がられ、低い声で短いお礼のお言葉を述べられた。これは天皇の傍に立つ式部長官鍋島侯爵によってフランス語でくりかえされた。・・・・
 この祝祭に際しても宴会場のガラス窓の背後の庭園に、食卓音楽のために配置された軍楽隊が、控え目な演奏をしたことは一般に好評を博した。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/8644594
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック