2007年12月20日

宮中のお雇い外国人5

旧領主家訪問と名所見物

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は松平子爵
matsudaira.jpg

引用開始
 とりわけ光陽館クラブで、日本人の友人の世話で何度も開催されたこうした宴会に出たほか、私たちは再三、新富座見物に出かける機会に恵まれた。もちろん宮中の人々は、新富座での観劇などを極力避けていた。日本では俳優は民衆の中でも社会的地位は最低であり、宮中の人々がしばしば劇場に出かけることは不謹慎だとされていた。しかし外国人である私たちは、こうした日本人固有の偏見に与する必要はなかった。そこで私たちは、芝居の内容をどうにか説明できる友人を伴ってしばしば劇場を訪れた。すべての役は男優によって演ぜられた。あの頃、日本には女優がいなかった。出し物はほとんどが歴史劇で、上演には数時間かかった。芝居は午前中に始まり、一日中続いた。・・・・・
 当然のことながら、有名な歴史的行為あるいは伝説を表している古式ゆかしい衣裳を着た俳優たちの出る場面は、観客にとっては緊張感にあふれた興味深いもので、彼らは終日ドラマの進行に没頭していた。俳優の演技は意味深長かつ自然であり、とりわけ崇高な情熱の表現が巧妙であった。もちろん日本語の知識のないヨーロッパ人にとっては芝居に対する興味はさほどのことはなかった。・・・・

 六月の頃、東京では郊外の堀切のむすばらしい庭園のある茶屋を訪れるならわしがあった。それというのも堀切では群生したアヤメが咲きほこり、魅惑的光景をくりひろげたからである。この月は雨さえ降らなければ、木々の緑はいともあざやか、田園の風景はきらびやかですがすがしかった。いたる所で茎の長い菖蒲の先に花が見事に咲いている姿がみられた。私たちはこの日、堀切から俥(くるま)で隅田川の畔のこぢんまりとした庭園の中にある愛想のよい宮内省の若手官僚で侍従の松平子爵の別荘を訪れた。子爵は徳川家の一族の一人でかなり憂鬱そうに、しかし諦念の気持ちをこめた愛想のよさで時代の変化について語った。明治維新以前には彼の父は地方の領主で城を持っており、また江戸にも屋敷と大勢の家臣を抱えていた。ところがその子息は小さな夏むきの別荘をもつだけの宮内省の役人というしがない身の上となった。日本ならではの精密な大工仕事を示す一部漆塗りの木材で組み立てられ、柔らかい畳を敷きつめたこのいかにも日本的な別荘の中に、松平子爵は遺贈された家族のもろもろの記念品を保存していた。


 私たちがこの子爵の別荘の二階で茶を飲み、すばらしい空気と平穏さをたのしんでいたところへ、子爵は長持ちの中に納め、絹布でつつんである数々の宝物を慎重に取り出し、先祖代々伝えられてきたこれらの宝物をしかるべき敬虔な態度を示しつつ私たちに見せてくれた。はじめに見せてもらったのは日本の家庭では最大の宝とされる刀剣類であった。これらの刀剣の鞘はすばらしく美しい漆塗り、刀身は誇り高い有名な刀鍛冶がきたえた作品であった。ついで象眼あるいは漆塗りの金ぴかの本箱、古代中国の陶器、北斎あるいは他の有名な芸術家の手になる掛軸などが披露され、当然のことながら感嘆の的となった。これらの貴重品の中に、往時日本に渡来した南蛮人を描いた陶器があったことを述べておこう。このヨーロッパ人は尾と水牛の角を備え赤い舌をもっているように描かれていた。子爵は私たちにこれらの品々を日光にさらすのはたかだか年に一回であると語った。過去の栄光の日々とおのれの高貴な家柄を想起したのであろう、彼は憂鬱の表情を浮かべながらも、さも楽しそうにこれらの宝物をみつめた。この愛すべき子爵は、宮中では常に変らぬ親切な同僚であった。・・・・

 仕事からの快適な気分転換になったのは東京の市街地さらに周辺へのきわめて興味深い、しかも有益な遠足であった。それはあるときは樹木が生い茂り、海の風が吹きつけてくる皇居庭園内あるいは徳川時代にできた多くの寺院や石灯籠が立ち並ぶ市内上野公園内の子供連れの散歩であった。またあるときは、もろもろの宝物、武器、兵器、とくに大砲を展示する遊就館という博物館の見学であった。寺の中でもとくに屋台や茶房に囲まれた浅草寺が多彩な民衆生活を浮彫りにしてくれた。仲見世通りの数多くの古物商、絹織物商の店はつねに古今の日本のすぐれた工芸品を見物し、観賞し、かつ購入するたのしい機会を与えてくれた。昔ながらの美しい塗り物、青銅器、武具、絹の宮廷衣裳がそれこそ想像できないほどたくさん、その頃の仲見世通りのすべての商店を満たしていた。しかも簡単に比較的安い値段で、大名の持物だったきわめて貴重な古い銀器、もとの持主の紋章のついた武具や漆塗りの箱、それに昔ながらのきらびやかな絹の着物を買うことができた。私たちは誘惑に勝てず多くの日本の工芸技術のすばらしい所産を購入した。だが私たちは生半可のことしかしていなかったことになる。なぜなら、今日、確かめられたところにわると、日本国内では古い工芸品はわずかしかなく、たとえあってもものすごい値段でなくては手に入らないからである。英米の商人、ビング・アンド・カンパニーのパリ商社、それに神戸と横浜の多くの輸出業者が、日本の古い工芸品の無限の富を全部買いあさったといわれる。徳川時代には、長崎出島のオランダ商館が少量輸出するのが許されていただけであった。ところがこの三百年間に集積された豊かな商品を業者がすっかり吸収し、全世界の国々にばらまくのにわずか数十年しか要しなかったのだ。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:22| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
この記事へのコメント
このブログは本当にいいですね(^-^)
下記のブログのコメント欄でも紹介してしまいました♪
http://ameblo.jp/lancer1
Posted by koko at 2007年12月20日 19:29
koko 様
どうも有難うございます。
ご紹介頂いたブログ、私もよく見させて頂いてます。
今後もお役に立ちそうな内容で続けたいと思っております。
Posted by 小楠 at 2007年12月21日 07:43
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