2007年12月18日

宮中のお雇い外国人4

皇后誕生日祝宴、宮廷音楽とお茶屋

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は長崎式部官
shikibu.jpg

引用開始
 毎朝十時頃、私は宮中内の前述の事務所に、あるときは馬、あるときは人力車でまた降雨の際は馬車で出かけた。するとただちに私の協力者、宮内相の個人秘書で宮内省式部官の長崎が、私と共同で作業をするために現れた。私たちはまず、「宮廷、国家ハンドブック」のうちプロイセンの宮廷ならびに国家制度について該当する章句に取り組んだ。私が英語に翻訳すると長崎が耳で聞き、望むらくは正しく理解したことを邦訳し、まとめて書きとった。・・・・・
 午後十二時三十分まで、ほとんどこの方式で仕事がつづけられた。そのあと気がむいたとき私たちが式部官食堂と呼んでいる宮中内の宮内省専用食堂へ昼食に出かけるのを常とした。この食堂の二つのテーブルで宮内省の役人全員にめぐりあった。一つのテーブルは勅任テーブルと呼ばれ、私たちのような高官用であり、もう一つのテーブルは奏任テーブルと呼ばれ、他のすべての官位の者が着席することになっていた。これら宮内官僚の上品で優雅な態度はまことに賞賛すべきであった。残念ながら日本語に通じないものは、食卓で交わされる有益かつ愉快な会話に、だれか親切な隣人がその内容を何らかのヨーロッパの言葉に通訳しようと申し出てくれない限り、加わることができなかった。私は常に多くの興味深いことがらが、そういう事情から私から逃げ去ってゆかねばならないことを遺憾に思った。・・・・

 午後は自宅にいるかあるいは遠足に出かけ、東京の市内や周辺で多くの興味深いものに巡り合う機会があった。来日早々、皇后が設立、保護されることになったベルリンのアウグスタ病院に模した日本の病院が開院した。そこへ皇后は宮中の人々とともにお出ましになった。皇室のお姫さまたちや多くの招待者が集合し、見学に先立って皇后にお目通りした。美しい宮廷馬車が行列をつくった。イギリス製で日本で漆を外側に塗り黄金の紋章をとりつけた皇后のお馬車はきらびやかであった。皇后が病院の中に入られると、ただちに馬は馬車からはずされ、ついで馬車全体の上に亜麻布のおおいがかけられた。それはひとつには馬車内にほこりが入るのを防ぐためであったが、ひとつには参集した群衆が不謹慎にも中をのぞいたりしないようにするためであった。天皇、皇后が降りられたあとの宮廷馬車を一時的におおいかくすしきたりはその後も随所でみうけられた。

 皇后の病院は新しい衛戍仮病院にするとの目的で、ある庭園の健康的な環境の中に建てられた。ベルリンのアウグスタ病院よりかなり広々としており、中の設備も立派であった。東京大学内の東京医学校はすでに多くの有能な日本人医師を育てていた。そして彼らは、新しくつくられた病院の職場で外科医あるいは内科医をつとめたいという気持ちを抱いていた。陸軍軍医監で、天皇の侍医を勤め、かつこの新病院の院長でもある日本で最も有能な医師橋本博士は、かつてベルリンとウィーンに留学しており、流暢なドイツ語を話した。・・・・・
 五月二十八日、皇后誕生日の祝賀が行われた。そのさい、皇后は早朝、奥の間で重々しい足取りで次々に現れる宮中の人々の祝辞をお受けになった。皇后は洋装の女官たちに囲まれ、やさしい陽光が注ぐガラスのドアのあるお部屋の中で、左右に伊藤宮内相と賀川式部長を従えられてお立ちになり、祝賀に現れた一人一人にやさしいお言葉をかけられた。私の妻もいっそう皇后のご寵愛をえたと思い喜んだ。祝賀の儀式は午前中いっぱい数時間つづけられた。このほかにお祝いの行事はなかった。少なくともそうした行事は公にはされなかった。
 私たちの永田町の家屋への引越しがいよいよきまり、中の設備も大変よく整った。そして私たちは毎日、東京在住の外国人特にドイツ人家庭を訪れるようになり、彼らとの親交がいっそう深まった。・・・・・日本に住む者の数が最も多い国民であるドイツ人とイギリス人との間柄は、その頃の日本では大変よかった。・・・・

 六月のはじめ、私たちは以前京都から東京に移転したもののその存続が革新の意欲に燃える日本の政治家たちから疑問視されるようになった興味深い宮中の音楽団体つまり雅楽寮の演奏を聴いた。・・・・
 独特な古式ゆかしい竪琴と太鼓によって奏でられる音楽は、ヨーロッパ人の耳にとってきわめて不愉快であった。各種各様のハーモニーと音階のすべてがしばしば絶叫する不協和音となって聞えてきた。そうはいうものの、全体に高度の歴史的魅力が欠けているわけではなかった。そこでこの特徴的音楽と、これに伴って色とりどりの絵のように美しい、だが極度に奇妙な衣裳を身につけた者たちがくりひろげるリズミカルな動きと舞踊を死滅させることは大きなあやまりであったろう。在席した日本人はこの上演はヨーロッパには滑稽な印象を与えたのではないかとたずねたが、そんなことはけっしてないと答えておいた。それどころか私たちは、はっきりと雅楽寮を維持育成すべきだと発言した。・・・・
 その後、まもなく、東京で有名なお茶屋の一つ「イセゲンコ」で芸者手踊りを見物する機会に恵まれた。芸者手踊りはあの宗教的な雅楽や能の舞のいわば世俗的な対置物となっている。主催者はドイツ語が堪能で愛想のよい丹羽式部官であった。芸者たちの身のこなしはいとも軽やかで、扇のめまぐるしい動き、目のさめるような色とりどりの長い振袖の美しさが、舞踊にいっそう魅力を与えた。小松さんという美しい芸者はぼんやりしたロウソクの光に照らされながら私たちに見事な舞を披露した。見物中に陶器のおちょこに注がれた生ぬるい日本酒は、私たちのたのしみをあまり盛り上げてくれなかった。それに畳の上に座るという慣れない動作も私たちヨーロッパ人には不愉快であった。それにもかかわらずこの宴会に独特の魅力がなかったわけではなかった。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
この記事へのコメント
http://shupla.w-jp.net/datas/flash/yamato1.html
このサイトは他にもいろいろ参考になります
Posted by koko at 2007年12月19日 07:53
koko 様
有名なFLASHがまとまったいいサイトをご紹介頂いて有難うございます。
皆さん色々と日本の正常化のために努力されていますね。
これからも益々このようなサイトが増えて、朝日やNHK のような偏向マスコミの勢力が衰退することを祈っています。
Posted by 小楠 at 2007年12月19日 18:58
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