2007年12月17日

宮中のお雇い外国人3

西洋の導入で失われる日本の魅力に遺憾の念

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は右、高倉伯爵夫人と左、北島いと子女官
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引用開始
 宮中全員にとって皇后美子は、共感を呼ぶ誰からも尊敬される女主人であられた。才能が豊かで野心的、精力的な日本国民の宗教、世俗の両面での首長という難しい任務をかかえられている天皇にとっても、皇后はきわめて価値のある支柱であられた。
 その頃の天皇の男性の側近では、皇后のご兄弟にあたり、まったく旧日本の代表者のような祭式長九條公、さらにやはり保守的に侍従長のちの徳大寺候が、宮中の幹部職員であった。大膳頭(だいぜんのかみ)はヨーロッパで教育を受けた若い岩倉公爵で、彼は有名な右大臣岩倉具視の息子であった。国璽尚書にあたるのは三条実美であった。かれは維新後、太政大臣の職についた、まことに帝国宰相といった人物で、賢明で繊細な古い京都の宮廷貴族の出身であった。・・・・彼の名声、単に職務上の地位ばかりではなく彼の個人的な地位はその頃きわめて高く、国家の第一人者とみなされていた。
 しかし彼は次第次第にスターの座から姿を消し、天皇の臣下の中でももっとも名声のある地位は、その頃の伯爵のちの侯爵西郷従道に移行した。従道は兄西郷隆盛の指導下に発生した薩摩の反乱、つまり西南戦争にさいしても天皇側にとどまったために、末長く天皇政府の感謝の念を確保した。・・・・・西郷の長女は宮家の一人閑院宮載仁親王と結婚した。
 皇后に仕える高位の女官は、正四位室町伯爵と正四位高倉伯爵である。ともに親切で愛想がよく活発な女性だ。二人よりもずっと下位の女官には英語を話しかつ書く北島嬢と大山伯爵夫人の妹でフランス語を話す山川嬢がいた。二人とも、あらゆる行事に皇后に必ず同伴し、忠実な通訳の仕事を果たしていた。・・・・
 この頃、宮中で働く日本人同僚の家庭を訪れたとき、私たちは男性の多く、そして女性のほとんど全員が和服を着ているのに気がついた。彼らは勤務中は洋装をしているところを見られたい様子であったが、家庭内では好んで和服を着ているのだ。・・・・


 ようやく、私たちの家が完全に整頓されたあと、宮中における仕事は着々と進んでいった。皇居の庭園に面した小さな部屋が私の執務室に定められた。・・・・
 庭園に面したガラス戸をあけると、うっとりとさせられるほど美しい花を咲かせた樹木が見え、鳥のさえずりやコオロギの鳴く音が聞えた。暖かい陽光は黄金の小部屋の奥までさしこんできた。ときどき庭園を取り巻く緑の生垣の隙間から、庭の彼方の禁断の区域をしばしば、さぞ満足そうにたがいに笑いながら散歩している「奥」の女性たちの赤いハカマがちらついた。
 この美しい隠れ場では、全く妨げられることなく、高度に文明化したこの国の奇妙な印象を受容することができた。わたしが執務していた皇居からは、古い日本の環境が生み出すあらゆる種類の魔力が流出していた。そのためこうしたすべての魅力が近代的な西洋の諸制度の導入によって失われねばならないことについて、私の遺憾の念がますます高められた。私の二つの感情が心の中で対立していた。一方には、まるで絵のように魅力的な数千年の歴史をもつ古式ゆかしい風俗、習慣を擁したきわめて美しく芸術的に完成された旧日本がある。他方には、外国との交流において必要な限り、こうした風俗習慣を廃止するか、あるいは近代化しなければならない必然性がある。いずれにしてもすでに洋風の基盤の上に欠陥だらけながらも新しくつくりあげたものを、今後は正しく、いかめしく、しかも趣味豊に変容させてゆかねばならない。あらゆる日本の個人の邸宅がそうであるように、宮中も二つの部分、すなわち奥の和式の部分と、表の洋式の部分に分かれていた。天皇、皇后ご夫妻の日常のご生活、お付き合いなどのための家庭用の部屋は純粋な和式につくられていた。壁の色は、藤色、白色、わずかに金色が含まれ、木材は漆塗りでなく自然の色調を残して加工された。床の畳のへりは黒または白であった。このように皇居の奥の間で用いられている家具、調度の種類、それに部屋の配置などは、京都の宮廷で数千年の慣習に従い不滅の効果を生かして、きびしく定められた模範に従っていた。・・・・・

 その間の事情は宮中における天皇のお住居が、日本の祖先崇拝の場所である国でもっとも古い神社のように単純、簡素な様式でつくられていることにも表れている。
 これに反し、閣議室や日本国内や欧米からの来客を応接する部屋は洋間であった。外国使節、日本人では国の仕事を果たしてきた官僚らを謁見されるという君主としての義務を果たされるとき、天皇はいつも洋服を召されていた。また宮中の要員は洋式制服を、そして召使いはやはり洋式のお仕着せを着ていた。厩は洋式につくられ、御者と厩の従僕は洋服を着ていた。だがこれらの洋服はいずれも欠陥だらけであった。洋式宴会のための陶器製器具やグラスはそろっていた。ただ銀製品は無趣味な「クリストフル」という安物金属で代用されていた。こうした品物は宮中には全くふさわしくなかった。たしかに投資はされていたろうが、正しい選択がなされていなかったからである。しかしこの間の事情がしだいに明らかになるにつれて、適切な忠告はもちろん尊重されるようになった。まずはじめに天皇にドイツの宮廷の正しい像をいかにしてお伝えするかとの計画について、伊藤宮内相との打ち合わせが行われた。そして模範としてはプロイセン王国宮廷とその組織が取り上げられた。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
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