2007年12月15日

宮中のお雇い外国人2

明治天皇、皇后のことなど

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は美子(はるこ)皇后
kougo.jpg

引用開始
 五月二日、私たちは宮中の人々に紹介された。それが午後二時、赤坂仮宮殿で行われることを長崎氏によって伝えられた。・・・・ 天皇はじめ宮中全体が、1887年には一時的に赤坂仮宮殿に住まわれた。ここは外見上は人目をひくような点は一切なく、広々として起伏に富み池や樹木に恵まれた名園のある将軍の郊外の御殿の一つであった。・・・・
 私たちは助手の長崎氏と青い洋服のお仕着せを着た召使いに迎えられいくつか階段を上って大広間についた。この大変簡素な入口の大広間を出て、私たちは両側に白色と灰色の紙をはり黒わくをつけた襖が連なる長廊下をわたった。謁見の間の前室では、私たちを宮中勤務の多くの日本人が迎えてくれた。この人たちは、その後私たちの重要な知己となった。
 まず式部長官鍋島候は、当初から朝廷に忠誠を尽くし、明治維新で功績をあげた大名の一人。前肥前候で、かつてローマ駐在日本公使をつとめた。この時四十歳、黒々とした毛髪とひげの持主で、あっさりとした優雅な物腰の愛想のよい人物であった。鍋島候は初対面のときから私たちに好感を抱かせた人物で、多少英語を解した。彼は公卿出身の有名な美人の奥方とともに日本の社交界の中心となっていた。・・・・・

 だれしも小型の洋風の文官制服すなわち金ボタンのついたビロードの襟をもつ燕尾服を着ていた。ただわが国の習慣とはちがって帯剣していた当番式部官が赤坂の和風仮宮殿の中を私たちを謁見室まで導いた。ここで私たちは洋装の天皇、皇后両陛下に紹介され、御前に立った。私は天皇と、そして妻は皇后と向かい合ってそれぞれ立ったわけだ。
 ヨーロッパ人からミカド、公式には天皇、しかし宮中では常にお上すなわち高貴な支配者と呼ばれている日本の天皇は、その頃まだ四十歳にもなられていなかった。天皇は、イギリスあるいは以前、ブラウンシュヴァイクの陸軍が用いた黒い軽騎兵の軍服姿で菊花の勲章をつけ、帽子はかぶっておられなかった。天皇はやや黄ばんだ肌色ながら若々しく、髪やおひげは黒かった。天皇は、いかにも特徴的に睫毛を動かされたが、あとは身動きひとつせず直立されていた。

 天皇の隣に立たれた皇后は小柄で、絹の洋服を召されていた。皇后はまことに美しく、しかも毅然とした立居振舞からしても、王侯の貴婦人の典型であった。ご夫妻はともに、まるでささやくように話されたが、ひとことひとことがただちに当番の侍従、長崎式部官それに宮中女官の北島嬢によって英語に通訳され、お二人よりは大きな声で私たちに伝えられた。
 謁見は約二十分とどこおりなく行われた。私たちに対しては、ドイツ皇帝、皇后、それに皇太子ご夫妻などの近況や、私たちの今回の旅行について天皇が質問され、また皇后は私たちの子供たちについておたずねになった。だがご夫妻は、少なくとも天皇はその間、控え目なしかも威厳のある態度をいささかもくずされなかった。天皇は、天井が低くかなり陰気な印象を与える広間のただなかで直立され、その場所を一瞬たりとも動かれることもなく、また手をのばされることすらなかった。
 皇后は、そもそも私たちの来訪に多くの関心を示されており、天皇よりもいくらか活発でしかも立ち入った態度をとられた。
 謁見が終ると、私たちは敬礼をしたまま後ずさりし、広間を退出した。その後別室で私たちは多くの宮中女官に囲まれ、独特の芳香を放つ緑茶を接待され、さらに謁見とその経過などについて質問を受け、また祝福された。宮内相伊藤伯爵の夫人も在籍していた。私たちが天皇ご夫妻にお会いしたあと、皇太子へのご挨拶をし、つづいて有栖川宮、伏見宮、北白川宮など宮家へのあいさつまわりをした。宮殿下はいずれも洋風の軍服を召され、ご令嬢や奥方もやはり洋装であった。・・・・・

 若い君主は今日では立憲君主的な役割を確実に果たすよう国全体、社会全体とともに変化された。天皇の権威、ミカドの地位と人格に対する根の深い尊敬の念が、徳川幕府の失策と崩壊によっていささかもゆらぐことなく、旧国家から新国家への移行の主導権をとることができたのは、日本にとってたいへん幸運であった。・・・・・
 私たちの日本滞在の全期間を通じ、天皇の私たちに対するご態度は、好意的であり、私たちを勇気づけた。それにときたまユーモラスに感ぜられることもあった。その様子はこの本でも述べるように天皇の様々の恵み深いお心づかいの中にうかがわれた。
 1850年5月28日京都にお生まれになった皇后美子がきわめてすぐれたお人柄であり、完全にヨーロッパの王妃と同じような態度をとられたことはすでに指摘しておいた。皇后はこよない愛想のよさを高い知性と結びつけられており、皇后すなわち女性の支配者の名のとおり宮中の魂である。小柄で華奢ながら皇后としての威厳に欠けるところは全くない。純粋に和風の皇后のご教養のほどはおそらくすばらしいものがあろう。
 おひまなとき皇后は、詩歌、芸術、それに植物のご研究にはげんでおられる。もともとヨーロッパ人を拘束している宮中の環境は、実は皇后をも拘束している。皇后にはある程度の自由すらなく、式部官や宮中女官の意のままになられていることが見逃されることはない。・・・
 この気高い女性とお近づきになれた者が全く忘れられないことはその思いやりのあるお人柄、おのずとにじみ出る心のあたたかさ、それに気高い考え方である。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
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