2007年12月14日

宮中のお雇い外国人1

日本上陸当時の模様

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真はホルレーベンドイツ公使
holl.jpg

引用開始
 1886年、私はペテルブルグ駐在のドイツ帝国領事であった。ヨーロッパのもっとも美しい首都の一つで生活し、仕事も多く愉快なこの職場から、極東のミカドの宮廷という職場に転勤することなど、夢想もしていなかった。
 ドイツ外務省人事局の枢密顧問官フムベルトの半ば公式的な手紙は、日本の宮廷がヨーロッパの宮廷実情を学び、かつ改革に乗り出すために現地の宮廷事情にくわしいヨーロッパ人の顧問を数年、東京に招聘しようと願っているとの驚くべきニュースを伝えてきた。さらにこの手紙は(全く正しい方式ではないが)、式武官と呼ばれることになるこの顧問が、宮内相夫人の代理として活動できるほど、やはり宮廷事情にくわしい貴婦人と結婚していること、さらにこの顧問が侍従の位階をもっていることが望ましいと述べていた。

 さらにこの手紙はくわしい条件などは、原則的に就任を受け入れてくれれば、ベルリン駐在の日本公使館と口頭ならびに契約文書に基づいて協議決定されることになろう、そしてこうした条件を具備していると思われるフォン・モール夫妻が適任とされたと伝えていた。最後にこの手紙は、日本の外務次官青木子爵と、東京駐在のフォン・ホルレーベン公使が、東京にいながらすでにわたしたちに関心を寄せていたと述べていた。
 説明のためつけ加えておきたいが、私は1873年から1879年までドイツ皇后兼プロイセン王妃のアウグスタ陛下の下で枢密顧問秘書をつとめていたことから、ベルリン駐在日本公使であった青木氏と昵懇の間柄であった。それに私はプロイセン王国の少年侍従をしたこともある。またフォン・デア・グレーペン伯爵家出身のわたしの妻ヴァンダは、プロイセンのフリードリヒ・カール王子ご夫妻の年かさの王女たち、すなわちオランダのハインリッヒ王子と結婚された(今は亡き)マリー王女、それにやはり今は亡きオルデンブルグ世襲大公夫人エリーザべト王女におつかえした宮廷女官であった。・・・・


 非常に早々とフォン・ヤスムント氏が私たちの船に乗り込んできた。彼は日本の外務省で青木外相の部下として重要な地位を占めていた。彼は私の亡父ローベルト・フォン・モールとはフランクフルト・アム・マインの連邦議会で親友だった人の息子であり、わたしにとっても旧友であった。彼はこれまで、私たちを歓迎するため、すでに何日も横浜で待機してくれたのだ。その後まもなく、首相兼宮内相の伊藤博文伯爵の代理として、私たちを歓迎し、さらに私たちの上陸の世話をするため長崎式部官がやはり船上に現れた。・・・・
 その後、およそ一時間汽車に乗ったあと東京に着いた。私たちは洋式の宮廷貴人用馬車に迎えられ鹿鳴館という名の外務省が管理する外国人賓客用の政府の建物に案内された。ここは、私たちに割り当てられる家屋が完成するまで、私たちを宿泊させてくれる広い設備の整った宿舎であった。・・・・
 その後まもなく長崎氏は、首相兼内相の伊藤伯爵夫妻に私たちを紹介すべく、私たちも常に利用できるようになった宮廷馬車で迎えにきてくれた。伊藤伯爵は私たちの直接の上司にあたる。またこの訪問にあわせて私たちは外務省の美しい建物に青木子爵夫妻を訪ねた(夫人はフォン・ラーデ伯爵家出身である)。・・・・
 首相は四十代半ば、あまり背が高くなく黒ひげを生やしており、きわめて落ち着いた礼儀正しい人物だが毅然として自己意識が旺盛であり、アメリカの政治家を思わす風格があった。私たちにとって、その頃、皇室と宮中を担当する宮内大臣も兼任していたこの権力絶大の改革者と調子を合わせてゆくことがきわめて重要であった。・・・・

 伊藤伯は同じ日に答礼の訪問をしてきた。彼が宮内大臣であるかぎり、伊藤夫妻を常に私たちの努力を好意的に促進してくれる人々とみなすことができた。ただここで早々と指摘しておきたいのは、伊藤伯が他の多くの日本の新しい政治家たちと同じように、私たちよりもずっと急進的な見解を持っており、私としてはどうしても承服できなかったのだが、多くの旧来のしきたり、習慣、それに制度を廃止しようとしていたか、あるいはすでに廃止していたことである。
 たとえば、宮中の祝宴のための和服衣裳の廃止は、残念ながらわたしたちが日本に到着する以前に、すでに決定され裁可されていた。この点に関して私たちについてなされた非難はまったく事実無根だといってもよい。実はその逆が真実に近かったのだ。古来からの日本の宮廷では歴史の一部をなしており、女性たちにとって、立居振舞いの確実さ、愛すべき習慣を意味していた。まるで絵のように美しい宮廷衣裳は、日本女性に対する天皇の布告によってすでに廃止され、いかにも俗悪な洋風衣裳にとって代えられていた。このところヨーロッパでは歴史ゆかしい風俗を甦らせ、古来の衣裳をもろもろの宮廷で装飾のためにも採用することを狙う動きが盛んになってきたことからしても、日本の実情は芸術家や、絵画的効果の愛好家にとって、まったく残念なことであった。
 しかし後述するように、この点については伊藤伯は頑として譲らず、彼の政治的な炯眼もにごってきたことを示すのもまさにこの点であった。なぜなら、後に明らかになるように、世論が彼を窮地に追い込んだのは宮中衣裳問題であったからである。・・・・・
引用終わり
posted by 小楠 at 07:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
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