2007年12月13日

はじめて見る日本8

琵琶湖から宇治へ

オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は当時の石山寺
ishiyama.jpg

引用開始
 夜明けに、参事と補佐が私の部屋に入ってきた。別れの挨拶を述べにきて、和服を着ていた。二人が誰だかほとんど分からなかった。それほど殿様然としていた。私はその点を指してお世辞を言ったが、全然気をよくしてくれなかった。というのも、二人はヨーロッパ人に似ていることを自慢していたのだから。
 出発は八時。我々は儀礼兵と目付という嘆かわしい護衛に先導されたり、取り囲まれたり、後続されながら加茂川大橋を渡り、町の東の渓谷に入った。・・・・・いま辿っている東海道のこの部分は人口の多い町の幹線道路と似ていた。路上はこの上ない賑わいだ。通行人、旅人、日本の使者にあたる飛脚、琵琶湖からか北の海(日本海)からか、走りながら運ぶ魚でいっぱいの駕籠を背負う人たち、長い竹竿を持つ苦力、女たち、遍路さんに、牛に曳かれた多数の車駕。道路は完備されていた。・・・・
 とくに我々の関心をすっかり惹き付けていたのは、ヨーロッパ人がごく稀に目にしたにすぎない神秘的な琵琶湖だった。この地方の市邑である大津県は、湖に注ぎ込む山の斜面に鎮座していた。・・・・

 湖の出口から程遠からぬところで、川に小島ができており、東海道の二つの橋が横切っている。・・・・我々は橋の下を通り、瀬田川の魅力のある岸辺に沿いながら、嶮しい岩山の麓に小奇麗にうずくまる小さな村に着いた。村は巨木に囲まれており、峰には、花崗岩の山で古くから名高い寺、石山寺が鎮座する。・・・・・
 寺の前で、上品な服装をした、貴族の家柄の出の娘さん三人に出会った。我々のそばを通る際、彼女らは頭を逸らせ、扇子で顔を隠した。これは帝国の役人の話によれば、まだお歯黒をしてなく、眉毛を抜いていない娘さんにとっては、しなくてはならない用心とのことだ。慎みの上から、彼女らのまばゆいばかりの美しさは、向こう見ずな異人の視線に会うことのないように要求されていたのだから。・・・・
 今日、我々はヨーロッパ人は誰もまだ訪れたことのないと言われる地方を横切ることになるだろう。大津出発は八時二十分。方角は南東。九時に追分村に到着。ここで東の方へ、日本中の名茶で名高い宇治地方へ向うために、我々は東海道を後にした。私は馬に乗って旅行をしていて、雨が土砂降りだったけれども、気温は温和で快かった。我々は大きな市場町、醍醐寺を通り過ぎた。・・・・


 十一時に非常に重要な別の市場町、チソ村(六地蔵村)に到着し、休息。正午に出発。半時間後に黄檗に、つまり著名な仏教寺の一つの大門前に我々は着いた。・・・・
 我々は一時にこの寺を後にした。天気は明るくなっており、我々はいつもながらの同じ自然から成る風景を楽しんだが、黄檗から、茶畑が加わってきた。高い防波堤が茶畑を横切っており、そこを通って我々は宇治川の岸辺に出た。・・・・
 宇治では大津へ戻るため、我々の儀礼上の護衛は、我々と別れた。これは彼らの訓示に対する重大な違反だった。というのも、彼らは大坂まで我々のお供をしなければならなかったからだ。けれども、エンズリー氏の雄弁が功を奏して、我々は、彼らにお引取りを願って、自由に一息つけることとなった。これら役人のしつこさについてはどう表現していいか分からないほどなのだ。旅行中も、休憩中も、彼らは片時も我々のもとから離れないのだ。
 三時半、川船に乗って出発。・・・・暗闇のため我々の哀れな川船は航行を続けることができないので、我々は七時頃、河の右岸に上陸したが、河はすでに淀川という名になっていた。・・・・

 役人たちは別の川船で我々よりも先に行っていてエンズリー氏はすでに宿に着いているにちがいない従者たちを待ちながら我々の持ち物の番をすることに腹を決めていたので、私は氏に従者たちをあとから送り込むことになった。私は提灯を用意して、渡し守二人とだけで出発した。夜は真っ暗だったし、雨は土砂降りだった。道は幅一フィートもない非常に高い防波堤で、片側は川に、反対側は沼沢地に浸っていた。地面は水浸しだった。一歩あるくたびに私は滑って、靴を泥の中にとられた。しまいには、渡し守の一人が私を背中に背負ってくれた。どこに足を置くべきかを指示しようと先を行く連れの背中に両手を乗せ、左側にはごうごうと唸る川の中に、我々の右側には屍衣の如く広がる沼沢地の中に絶えず転げ落ちそうになり、歩くごとによろめきながらも、この気のいい男は前に進んで行ったが転ぶことはなかった。
 二十五分かかったが、私には大層長いように思われた騎馬行の後、我々は遠くに光る一点を認めた。それが旅籠だった。そこで私は歓呼の声で迎えられた。男の人、女の人、娘さんが私を取り囲み、物珍しそうに眺め、私には分からない止めどない質問をし、至れり尽くせりの世話と親切を施してくれた。いやだと言ったにもかかわらず、あっと言う間に、私は「一同の目の前で」雨でびしょびしょの衣服を脱がされ、お湯がいっぱい入った風呂桶の中に入れられた。ロブスターを茹でられるほどの湯加減だったが、次に冷水を体にかけてくれた。これが日本人のやり方で、実にすばらしいものだ。旅籠屋の真新しい浴衣で私は包まれ、貴賓室の畳の上に案内された。熱いうちに出された宇治茶を何杯か飲むうちに、しまいには私の体力も回復した。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
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