
あの勝海舟に青い目の六人もの孫がいたことをご存知でしょうか?
勝海舟の愛人の一人、長崎時代から続いた“おくま”との間には男子が生まれています。名前は梅太郎(後におくまの生家梶家の姓をつぐ)といい海舟の三男として育てられました。明治十九年(1886)、この梅太郎に嫁いだのが、クララ・ホイットニーです。
日記はクララが十五歳になる明治八年(1875)から始まっていますが、開国間もない日本の姿を生き生きと表していることと、そこに登場し、クララが交際した人物が、当時の超一流人であることに驚きます。勝海舟とその家族は勿論、福沢諭吉、森有礼、大鳥圭介、大山巌、富田鉄之助、新島襄、や、アメリカ公使ビンガム、イギリス公使パークス、ヘボン式ローマ字で有名なドクター・ヘップバン、フェノロサ、グラント将軍などなどです。
来日のきっかけは、クララの父が、東京に開設した商法学校(商法講習所、一橋大学の前身)の所長兼教師として家族共々赴任してきたことによります。この日記は上下巻とも約600ページにもなります。
日記は明治二十四年(1891)十二月十一日で終わっています。どのような感じで書かれているかを中の一日分だけ抜き出してみましょう。
引用開始
明治九年(1876年)11月3日
(目次では「明治天皇誕生日と勝家の人々」となっていますが、日記には日付だけです)
今日はミカド陛下の誕生日で・・・ミカドは二十九歳になられたと思うが、確信はない。・・・私は前に約束したとおり、お逸(注:勝の三女逸子でクララと同い年なので一番の親友)を訪ねた。いつものように早く起き、顔を洗って着替えをし、八時半までには行く準備ができあがった。
まず銀座に行って、この親切な友達のために贈り物を買った。街はなんと華やいでいたことだろう! いろいろの種類の旗が、どの窓にも入り口にも華やかに翻っていた。・・・私たちだって決して流行に遅れたわけではない。二階のベランダに、手製のアメリカの旗を守るように、日本の旗を二本高く立てたのだ。母は「日本の旗の真ん中の太陽が満月のように見えるから、わが国の星がとてもよく調和するわね」と言った。
精養軒ホテルは、紅白の提灯と旗で美しく飾られていた。そして今晩、その提灯がともされた時には、効果は抜群だろう。たいへんな人出で、特に外国人と役人が目立った。
勝夫人と、おこまつと、お逸が出迎えて下さったので、私はお辞儀をして挨拶をし、お土産を出して中に入った。客間へ行く間、おこまつとお逸は私のまわりで踊り浮かれ、お母様は後ろからおごそかについていらっしゃった。
帽子掛けや傘立てや、鹿の角のある長い廊下を通り過ぎて左へ曲がると、広い薄暗い部屋があり、そこには屏風と本棚と油絵と、風変わりな寝台があった。隣の部屋とは襖で仕切られ、次の間にはテーブルと椅子が置かれていた。・・・皆私の帽子を褒め、勝夫人はご自分の頭にかぶってごらんになった。赤い花と黒のビロードが皆さんのお気に召したらしい。
やがて、およねが日本の着物をいっぱい抱えて入ってきたが、お逸が言うには、私がこれを着なくてはいけないのだそうだ! 私はしばらく抗議したが、結局着ることになった。それはお逸の冬の着物だった。・・・
靴下ははいたままで、私はすっかり立派な貴婦人になっていた。それからお逸が反対に私の服を着込むと、家族全員が大変面白がった。
自分の姿が見えるように、みんなが長い鏡を持ってきてくれた。勝夫人は、お嬢さんに「顔が黒いから、洋服が台なしだ」とおっしゃった。・・・それから羽根をついて遊んでとても楽しかった。
やがて食事の時間になって、お逸とおこまつと私はめいめい小さな丸いお盆の前に坐った。お盆の上には吸い物、魚、海草、西洋わさびとご飯がのっていた。私はお箸を使ってご飯から食べ始め・・・それから、わさびを食べてみたら、ほんの少しだったのに、辛くて辛くて、気が遠くなりそうだった。・・・食後また羽根つきをした。ウィリイ(クララの兄)、よね、逸、おこまつ、梅太郎、七郎と私、それに時々奥様も加わった。奥様はすばらしくお上手で、非常に陽気でいらっしゃった。・・・・・とても楽しかったし、それに家族の中にまで迎え入れていただいて、日本人の私生活を見るよい機会に恵まれた。
引用終わり。
どうでしたか?明治初期の日本の姿ですが、勝海舟夫人やその子供たちと、後に梅太郎の妻になるクララが勝家で楽しんでいる様子が、読むものに伝わってきます。家の中ではまったく格式ばったところがなく、勝夫人も結構お茶目だったのですね。
そうだったのですか。全く知りませんでした。
クララ一家は勝海舟にとても世話なって感謝しています。
ちなみに、クララの母は青山墓地の第一号埋葬者ということです。
お互いにどんどん訴えていきましょう。
エライ クララ
なんでアメリカに戻った?