2007年12月11日

はじめて見る日本6

大阪から京都へ

オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は道頓堀中座
nakaza.jpg

引用開始
 この都市(大坂)は日本の商都である。(日本)帝国の中央部向けの外国産の商品すべてはここを経由する。・・・・ここでは蒸気が役割を果たしはじめており、この点で、日本人は中国人を凌駕した。後者は機械の動かし方や蒸気船の運転の仕方をまだ習得していないのに、そうしたことができる日本人を見出せるからだ。
 土佐候は、大型の蒸気船を何隻か所有しており、その船長や機関士は現地人なのだ。我々は、この町の外に、美しい三隻の蒸気船が投錨しているのを見た。それらはこの大名の所有になるものであり、横浜と瀬戸内海の小さな港との交易をしている。船賃はアメリカの船会社の料金よりかなり安いので、船はいつも乗客で超満員だ。
 外国から輸入された商品は大坂から淀川を伏見まで遡り、そこから陸路で京都へ運ばれる。この川を遡り、琵琶または近江という名称で知られる大きな内陸の湖に入る他の船もある。・・・・
 私が(英国)領事館の敷居をまたぐまでもなく、岩倉(具視)の書簡により私の旅行を予め知らされていた府知事が来訪を知らせてきた。数分後、副知事と通訳に伴われて、府知事がやって来た。彼は日本の高官の典型というべき人で、礼儀正しく、立派でこの点は彼に十分ふさわしいことながら、少々ぎこちがなく、場合によっては顔が引きつり、顔の表情は考え深げな様子になったり、少々間が抜けたようになる。・・・
 ありきたりの文句の交換が終るやいなや、彼の顔の表情は和らぎ、もともと陽気でしばしば好意に満ちた彼の本性が勝ってしまい、暇乞いの時に再度仮面をつけることにしておいて、公的な仮面をはずしてしまうのだ。・・・・

京都御所の内部見学を要求
 我々は四時に伏見に到着した。華々しい式典が我々を待ち受けていた。船着場では、正装の当局者たちが我々を出迎えてくれ、花々や絨毯で飾られた美しい部屋に案内されたが、そこにはこの日のために机と椅子が置かれてあった。我々が自由に使えるように府知事が気をきかせてくれた、これらのありがたい家具は、旅行中ずっと我々のお供をしてくれることになった。・・・・


 京都の南東にある我々の旅籠から北東のはずれに近い御所へ行くには、町を端から端まで横切らねばならない。我々の行列の先頭に府知事の役人が進んだ。彼は黒色の大きな馬に乗った武士で、馬は大小の刀を差した人間の好みに従い、跳びはねたり、勢いに乗じて走ることを仕込まれていた。馬に乗った護衛が六人すぐさま我々の前に行った。(大)参事とその副官は二人のヨーロッパ人のそばに、しかも、できるかぎり近くに陣取った。別当は徒歩で後について来た。我々は別当が我々の馬の手綱を把かませないようにするのに大変骨を折った。両刀を差し、馬に跨った役人六人と徒歩の護衛たちが、後衛部隊を成していた。合計すると、我々は約四十人となった。したがって、我々の凱旋したような行進は大変な騒ぎを巻き起こした。通行人は立ち止まるし、商人とその家族は、店の敷居の上に殺到した。誰も彼もが(大)参事の前で平伏し、他の士官にも深々と挨拶した。二人の外人に対しては、愛嬌振りまこうなどとはせず、物見高さと冷やかさをもって二人は眺められたのだ。保守的な人たち、つまり我々の参事の言うように、反体制派の人たちが住む若干の界隈では、我々に投げつけられる眼差しから判断すると、我々は全然人気がなかった。休息中、私の鼻眼鏡が大きな騒ぎを起した。近づいてきて、使わせてくれと私に許可を求める貴族が幾人かいた。鼻眼鏡は手から手へと回り、約数百の人々に感嘆の声をあげさせてから、何度も惜しみのない感謝の言葉が表されて、私に戻されたのだ。・・・・・

 私の京都旅行の主な目的の一つは、天皇の城、つまり真の住みかは天空にあるといえそうな――というのも彼は天子なのだから――あの謎の人物の住居を見物することだった。天子の住みかを江戸、大坂、京都の将軍の豪邸と比べることは、将軍と天皇との間のほとんど未知の関係をいまなお覆うヴェールの端を持ち上げることだと私は期待していたのだった。けれども、江戸や横浜では「そんなことをお考えになってはいけません。天子の住みかは、人間には近づけないのです」と私は言われていた。これほど当り前なこともなかった。とはいえ、私は匙を投げてはいなかった。アダムズとサトウ両氏の親切でいつの場合も有効な仲介のお陰で、かなり長い交渉を重ねた後、岩倉は、第二の壁の九つの門内を私に見させてくれる、つまり公家の住む一画に私を這入らせてくれる命令つきの、御所管理者(留守宮内省)宛ての書状を私に与えてくれていたのだった。その辺りからは、御所をはっきりと目のあたりにできることだろう、と言われていた。
 けれども現場に着き、かの名高い九つの門は幸いにも開かれていたものの、そこからは別の外壁しか見えず、御所は全然見えなかったので、私は第二、第三の柵が囲んでいる二番目の中庭に入らせてもらえるようにと言い張った。参事は驚きを、いや不満さえをも私に隠さなかった。なんという前代未聞の要求とでもいうのだろう。そうかもしれないが、私は言い張った。ことは深刻なものになった。我々の案内役は動揺していた。彼の諫言は、懇願、笑いと困惑の沈黙に取って代わった。こうした煮え切らない萌しを見て、私は更に拍車をかけ、高官二人と随員すべてを従えて禁じられている門の敷居を越えてしまった。
 二つ目の、中庭に辿り着くと、我々は無言で互いの顔を見合った。みんなの顔の上から、驚愕が読み取れたのだ。またとない冒涜を犯してしまったというのだろう。・・・・・
次回に続けます。
posted by 小楠 at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
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