2007年12月06日

はじめて見る日本2

明治四年八月・富士への小旅行

オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は山中湖のさかさ富士
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引用開始
 オランダ公使ファン・デル・フーフェン氏が、自分の計画している富士山への小旅行に加わらないかと勧めてくれた。私はこの得がたい機会を利用して、その休火山のほとんど未知の北部・北東部地方を探検してこようと思った。旅行者は六名。・・・・いよいよ今朝(三日)五時、暑い一日を思わせるすばらしい晴天の朝、我々は腰掛付馬車に乗って出立した。馬車は我々を乗せて東海道に向う。東海道は日本の幹線路で、ここから一里あるが、この東海道に出ると、小田原の川(酒匂川)まで馬車に乗っていくことができる。そこからは徒歩や馬や駕籠で道を続けるのだ。我々の守護天使にして監視人である役人は、小さな痩せ馬に乗って、我々の車を取り巻いている。この原始的なつくりの乗物に腰をおろすやいなや、私以外の者はみんなそれぞれ自分の武器を点検しだしたが、私は武器を何も所持していなかった。となりの若者はポケットから恐ろしげな回転式連発拳銃を取り出した。彼がその拳銃をとり扱うさまを見ていると、これまでの世界周遊旅行ではじめて、自分の生命が心配になったのだ。

 東海道はいつもと変わらずたいへん賑わっていた。徒歩で旅する者、乗物(のりもん)をつかう者、駕籠に乗った者、女子供、両刀を差した人々、剃髪した僧侶などが、ほとんど途切れることなく続くのだ。・・・・
我々に付き添っている役人たちは、立派な若者だった。大きな鍔の黒い烏帽子をかぶり、絹のゆったりとした着物をつけて、結構上品なのだ。道の両側には家や店や木が立ち並んでおり、村々が隣り合っていた。・・・・
 一時頃、封建都市小田原の対岸に到着した。ここで馬車を降り、我々はそれぞれ一枚の板の上に横になって、指を小さな穴に通した。そうすると、四人の裸の男たちがその板を持ち上げて肩に乗せ、そして川の中に飛び込んだ。これは奇妙だが少し感動的な迫力のある情景だった。急流の中ほどまで来た時、水が板をかつぐ男たちのほぼ肩の高さまでになった。激しい流れに屈せざるをえず、男たちは流されるがままになったが、幸いにも背が立たなくなることはなかった。まるで我々が小船に乗って下っているかのように、岸辺が遠ざかっていく。そのうち海の怒涛の響きが苦力たちの拍子をつけた大声と混ざりあうのだった。彼らは荒波と闘いながらも時おり笑いながら我々の方を見やる。軽い板の上でさんざん揺さぶられつつも、我々は板に必死にしがみつく。やっとのことで川岸にたどり着き、我々は砂の上に降ろされた。

 そこからなお少し歩くと、小田原の大通りに出た。この町の入口では、奇妙な礼服を着た市長と助役たちが我々を出迎え、大袈裟に叩頭の礼をした。それから彼らは我々を盛大に歓迎して大きな茶屋に連れていったが、そこでは昨晩から送り込まれた人々が昼食を準備していた。一、二年前から小田原には横浜の居留民たちが訪れるようになっているが、それでも、肌の白い人間がやって来ることは、ここではいまだに大事件であるようだ。住民たちが、男も女も、数えきれないほどの子供たちも、みんな我々が食事をするのを見に駆けよってくる。・・・・・
 そうして夕方の七時頃、ようやく宮ノ下の温泉に到着したのである。
 村長は、日本人の家族を追い出して、我々を一番いい宿屋の一番いい部屋に泊めてくれた。・・・・
 別の部屋には、我々のお目付け役の役人たちが、若い娘たちのまわりに車座になってしゃがみこみ、唄を歌ったり、酒を呑んだりしていた。台所は料理の準備をする女たちでいっぱいだった。彼女たちは鍋の火加減を見守り、まだ生きている魚を切ったりするが、このうえなく清潔で、手際もよい。目を驚かせるようなものは何もない。みんな喋ったり笑ったりして、いかにも楽しそう、暢気そう、気さくそうだ。・・・・

 我々の一団は、午前六時少し前に、縦列になって出発した。もし自分の体から脚を取りはずすことさえできれば、駕籠の旅ほど快適なものはまたとあるまい。この国の駕籠は開けっぱなしの駕籠で、長さ約三フィート、高さニフィートである。ただし、駕籠を吊り下げている大きな竹の厚みを差し引かなければならない。屋根は太陽の光から身を守るには不十分で、おまけにたいへん低いので、どうしても仰向けに寝なければならないし、また前の駕籠かきがあまりにも接近しているので、脚も折り曲げなければならないのである。でも人間というものは何にでも慣れるものだ。さもなければ日本になんか来てはいけない。日本は世界の他の国々とはまったく違う別世界なのだから。・・・・

 今日はこの上なく楽しい一日だった。駕籠に乗って旅をするのは、いわば地面すれすれに飛ぶようなものだ。午前中、草原を横切っている時、草や地衣類や花の茎が私の頬をなでていたし、私の視線は、歩行者なら足で踏むとすぐさま視界から逃れていく神秘的な地帯の中へと入り込んでいくのだった。これは私にとって一つの啓示のようなものであった。太陽は木の葉の陰や草の茎と戯れていた。私は蜜蜂や蝶や無数の昆虫が花々の萼(がく)にこっそりと忍び込むのを観察した。それにしても何と美しい花々であったことか。巨大な撫子の花の上に優美に傾いている大きな釣鐘形の青い花、細長い草の円天井の下に咲いている百合の花。あらゆるものがこの国ではにこやかに笑っているのだ。植物も、人間も。駕籠かきの貧しい人々を見てみるがよい。彼らはいつまでも笑いつづけ、喋りつづける。玉のような汗が赤銅色の体をしたたり落ちていてもだ
 彼らは二、三分毎に駕籠をかつぐ肩をいれかえる。それも一瞬の早業だ。我々のそれぞれの駕籠には四人の苦力がついていて、かわるがわる交替する。登り坂では、手のあいている者たちが駕籠をかついでいる相棒たちの背中を手で押して助けてやる。十分ごとに彼らは交替する。が、あらかじめ丁寧に声をかけたりはしない。「お前さん、疲れただろ――ちっとも、お前さんの目こそ節穴だい」というような次第だ。そしてまた笑いがまきおこり、やられた方はやり返すのである。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
この記事へのコメント
富士山が大変奇麗ですね。
Posted by まさ at 2007年12月10日 08:01
まさ様
この画像は、モースの「100年前の日本」からのもので、引用書籍の時代から二十年くらい後のものなんですが、白黒写真を彩色してあるようです。

まさ様の「宣戦の詔書」の引用、片仮名と漢字のタイプは大変だったでしょう。
Posted by 小楠 at 2007年12月10日 08:07
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