2007年11月29日

仏人の見た明治の長崎

門司から長崎へ

フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。
 彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。
写真は当時の長崎港
nagasakiport.jpg

引用開始
 私たちは、まさに日が暮れようという時刻に、日本地中海のジブラルタルともいうべき下関海峡に着いた。門司港は煙の幕に覆われている。無数の帆船が、長く伸びた赤い水平線上に浮かんでいる。かつては名もない漁村に過ぎなかったところが、今や九州鉄道が通り、要塞を設けられた都市になった。
 汽車が出るまで時間があったので、私は日本人の旅行の仕方をもう一度観察した。ある程度の階層の日本人は、高価な荷物のように旅行をする。行先を告げる必要はほとんどない。下車すると、宿がたとえほんの数歩のところにあっても、そこまで運ばれる。宿では、茶、酒、料理が振る舞われ、芸者がまかり出る。彼は何にも気を遣う必要がない。彼の汽車の切符は彼の手の中に滑り込み、時刻かっきりに、車室に案内される。自分の夢想を中断されることなしに、下船し、町を通り、汽車に乗ることの出来るのは、世界で彼らだけである。信徒の手で移転する仏陀さながらである。

 しかし、異国の仏陀である私は、家族全員が私の周りに集まっている宿屋のござの上には坐っていない。僧侶の説教は、私の沈黙ほどには必ずしも多くの人を集めない。門司の人びとは、普通よりももっと強い好奇心を示す。私が口にする僅かの言葉、生活習慣についての私の試み、酒や生の魚に対する私の好みは、たちまち無数の微笑と丁重な挨拶を招くにいたる。
 突然、宿屋の主人が、その質問が私に通じないのを見て、頭を掻き、英和会話の手引きを探しに人を走らせる。彼はその手引きを、最初右から左に、次いで左から右にめくり、その顔は赤く充血する。・・・
 女中が入って来て、私に汽車の切符を渡し、主人には車夫が玄関に来ていると告げた。しかし、主人は下女を押しのけ、熱心にページをめくるのをやめようとしない。私は通訳がいないことを呪った。そして、不安は募るし、ここを立ち去りたい気持ちは強くなるしで、私はどうしてよいか分からなかった。その時、宿屋の主人は勝ち誇ったように拳を振り上げ、上体をすっくと起すなり、爪でしるしをつけた次の言葉を私に指し示した。
“I do not understand English”


 私は危うく列車に置いてきぼりをくうところだった。あの宿の主人と彼の会話手帖を相手にして宵を過ごすことになったかもしれないと思うと、ぞっとした。しかしながら、私のその夜は、よりましというものでもなかった。ある偶然から、英語とフランス語のチャンポンを片言で話す隣人につきまとわれる破目になったからである。
 それは鳥栖の商人の息子だった。彼の勉学が大した程度のものでないことは、私に向けた最初の質問で分かった。
「あなたの国には鉄道がありますか?」
 私は彼に、日本に鉄道が敷設されるより前に、フランスは鉄道を建造していたと述べた。
「で、わが国のと同じように乗り具合はいいですか?」
「それはなんとも言えないけれど、車中でよく眠れます」
 そこまでにして、私は彼にお休みと言った。この厄介な男は、そのあと十回も私の眠りを妨げた。まず彼の名前を名乗り、私の名刺をねだり、彼の父の住所を伝え、ついには――ああ神よ、彼を許し給え――彼の背広の生地、「イギリスの本物の生地」を私に手で触らせるのだった。
 ついに私が眠気を失ってしまった時には、彼はその頭を私の肩に預けて眠りこけていた。鳥栖で、列車の車掌が彼を揺り起こし、その足を引っ張って、やっと私を解放してくれた。
 暮れなずむ夕暮れの薄光の中で、田圃、丘、湿った感じの森、小さい村落、そして寺と墓地――すでに見慣れた日本のすべてがふたたび姿を見せ始めた。
 
 翌朝、ふたたび日が昇った。田圃の彼方で、刈取りをしている人びとが、きらきら光る鎌で目を覆いながら、走りすぎる私たちを眺めている。やがて、私たちは大村湾に着いた。私たちは徒歩で桟橋に至り、海を渡って時津に辿り着き、そこから長崎行きの列車の方へ歩かなければならなかった。黄金の流し込みのように、いくつかの丘の麓をくねり、きらきら輝く田圃の中を通っている小道を歩く、眠気も覚めるすばらしい散策。履物の店と茶屋の屋根の上には、艶のある月桂樹の枝葉がこんもりと茂っていた。
 午前十一時ごろ、長崎の錨地が見えた。山に囲まれた、巨大な藍玉の杯さながらである。私はコサックの輸送隊の士官たちといっしょにホテル・ペルビューに着いた。
 カンヌからボルディゲラまでのリヴィエラ海岸といえども、長崎のヨーロッパ人居留地以上に魅惑的な風景は見られない。この居留地の晴れやかな高台は、この町の一翼と港全景を見下ろす位置にある。ここに欠けているものといえば、オレンジとばらの香りだけである。しかし、桜の季節も過ぎて、日本の花々も、果物が芳香を失ったように、もはや香りをもたない。この季節に、ウラジオストックの人びとは冬の間体を暖めにやってきて、夏の最中まで留まるのである。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
この記事へのコメント
英語の辞書を必死に引く宿の主人、外国人を質問攻めにする若者、気持ちはわかるけれど空気を読め、ということでしょうか。まじめで一途で融通が利かないのも、日本人の特徴のひとつですね。
Posted by milesta at 2007年11月29日 08:01
milesta 様
この下りには笑いましたが、結構自分も似たようなそんなことがあるのかも知れないと反省です。
少し外国語が喋れるようになると、何かと話してみたくなるものですからね。
Posted by 小楠 at 2007年11月29日 11:59
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