フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。
彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。
写真は当時の八坂神社・四条通り

引用開始
すばらしい場所であった。寺院の名前はもう思い出せないが、いくつかの丘に囲まれた平地全体が見渡され、そこに京都の町並みがくすんだ黒っぽい干潮のように広がっている。大きな建物の屋根も浮き立っては見えない。緑がかった、大きな塊のように見えるだけである。・・・
いくつもの丘の斜面のいたるところに、寺院の階段、仏塔、神社、叢林等が、朝の光が輝く青白い空気の中に、くっきりとそれぞれの輪郭を浮かび上らせていた。小川と小鳥だけが歌っていた。人間たちの住居も、神々の館と同じく静まり返っていた。
かつて、帝位が盛んで、天皇が京都に都を置き、この都市の四十万の人口のうち五万人が僧侶であったという時代には、狭くて長く、上り下りの坂の多い大路小路は、耳に入るものとては、衣ずれの音に刀の触れ合う音、笛の音、舞踊の調べのみであり、朝な夕な、僧侶が鐘を打ち鳴らしていたのであろう。
われわれは、寺院近くの、とある茶店の戸口に腰を下ろしていた。校旗を先頭にして、少女の学校生徒の群が通っていった。どの子も明るい色の着物を着て、生徒らの姉と見えるくらいの女教師たちに引率されていった。女生徒たちは山腹の神にお参りに行くところで、めいめいが枝葉模様の布(風呂敷)にきれいに包まれた小さい弁当を下げていた。少女らの、軽やかな、跳びはねるような一群は、たちまち木立の陰に消えた。・・・・
あらゆる地方から、学校の教師たちは、生徒を引率して京都にやってくる。ほこりで真っ白になった履物を引きずり、ある者は日本風の衣服をまとい、他の者はヨーロッパ風の衣服を着こんだ生徒たちの群に会わぬ日はない。一見して、彼らの無骨な顔は、喜びも驚きも疲れも見せておらず、懸命な緊張の表情があるばかりである。私は好んで彼らのあとについて行く。とくに、彼らが宮殿や城館を訪ねるときにはそうする。この少年たちは、過つことのない嗅覚を備えていて、優れたもの、珍しいもの、極上のものの前ではぴたりと足を停める。
この生徒たちを、天皇の館、あるいは旧将軍の城の中で見るべきである。しかし、幻想的で華やかで豪奢な様式によって私を魅するこの居城を表現するのに、館とか城とかとは別の言葉を私は見つけたいと思う。これらの居城は重厚でしかももろい感じなのである。重たげな屋根の下の、自然の美しさのすべてが反映している、半透明の夢幻の境に入る。ここは外気にさらされた一階に当る部分である。紙と絹と金から成る華奢な壁が、それぞれの格間が孔雀の尾羽のように美しく輝いている天井を支えている。この壁に孔をあける剣の一突きで、この夢の城、この幻影の館も一瞬にして崩れ去るのではないかと思われる。なんと豊かな多様性、なんとおびただしい技巧! そして、なんという間取りの見事さ、そして優雅さ!・・・敷き詰められた畳の柔らかさが、固い地面を離れてこの世ならぬ世界を歩んでいるような思いに誘う。
わが連れの人びとは、この心地よい眩暈を覚えない。彼らの好奇的な目は、価値の測り知れない宝飾品に素早くそそがれている。彼らの目は、一本の木、一羽の小鳥を他のものとははっきり別のものにする絵筆の走りを見てとっているのである。・・・・
私にとって非常に楽しいのは、こうして古い京都の街中を、遠い昔から洗練されながら、長い時間血にまみれて生き、しばしば優しくも皮肉なこの民族の後継者らと行を共にすることである。
日本のたいていの都市では、最も中心になる地域で、宵に入るごとに始まる祭を行う習わしである。まるで、操り人形が鈴を振るのを見ないでは眠れないかの如くである。夜の食事がすむと、ほんの数歩あるけば縁日の舞台である。・・・
店や屋台は、群衆が物静かなのと同じくらいに静かで柔らかい光を投げる提灯で飾られている。たまに、ヨーロッパ風の商店や床屋、それに本屋などだけが、明るい光を投げている。・・・・本屋といえば、その色とりどりの光が表の通りまで広がっている。本屋の数がこんなに多い国を私は知らない。ほとんど礼拝堂と同じくらいに数が多い。
しかし、私にとって最も楽しい京都の見世物といえば、それは庶民劇である。・・・
京都の住民はとても色が白く、言葉も他の地方の人々よりも柔らかである。それに、この地球上に彼らよりも丁重な人びとがいようとは思えない。「東国男に京女」と古い諺はいった。江戸は今日では東京と呼ばれる。みやこは京都と呼ばれる。しかし、この諺は今日でもその道理を失っていない。ここの女たちはほとんど全部が優雅であり、その中の一部はほんとうに美しい。この女たちなら、ヨーロッパでもアジアでも、およそ目のある男たちのいるところならどこでも美しいといわれるだろうと思う。
芸者はとりわけ魅力的である。人びとの話では、彼女らは山の米しか食べないのだという。山の米は平地の米より栄養に乏しいからだそうである。彼女らのほっそりと美しい顔立ちも、夢のようなあの風情も、その軽い食べ物のせいなのかもしれない。とある丘の険しい中腹に山の米の畑を見かけると、私はすぐに京都の芸者のことを思い、貧しい畑から美しいものを作り出す術を心得ている日本人の器用さを思う。
中産階級の女たちは、かなり質素な外見の衣服の下に、他の階層の女たちが真似ようともしない気品を秘めている。その多くは貴族の子孫である。しかし、彼らの失墜はけっして衰亡ではなかった。彼女らは普通の平凡さの中にとどまった。彼女らはかつても華やかながら平凡に暮らしていたのである。そもそも、京都の貴族は、革命によって貧しくはなったが、この新世紀に腹を立てたりせず、世を拗ねて隠遁したりすることもなく、人生の新しい要求に素直に順応したのである。
引用終わり