「クーデンホーフ光子伝」木村毅著から要約してみます。

彼女は美人をスカウトするのに熱心な紅葉館にスカウトされて、そこの女中となります。女中と言う言葉は今では使用をはばかれる言葉ですが、当時はやや敬意をおびた呼び方で、女性と言うよりも丁寧な響きだったようです。なお紅葉館は、二年遅れて開場した鹿鳴館と併称される明治の代表的社交場で、鹿鳴館が万事洋式で、政界関係の名士、華族、富豪でなくては出入りできず、手厳しい非難を浴びたのに対し、紅葉館は和風で、新聞記者なども気軽に出入りでき、鹿鳴館が自然消滅したあと益々繁盛しました。彼女はここで18歳まで、日本女性としてのあらゆる教育・訓練を受けます。
一方、彼女の夫となるハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵は、オーストリアの駐日代理公使として明治25年2月29日に来日し、ある出来事から、ミツコを公使館に勤めてくれないかと交渉したところ、ミツコはすんなり承諾したのです。
翌明治26年9月16日には長男光太郎(本名はハンス)が誕生していることから、着任早々にスピード結婚していることになります。そして次男として東京で誕生したのが栄次郎、リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵であり博士です。
ハインリッヒ一家は1896年(明治29年)オーストリアへ帰国し、ミツコにはハプスブルグ家の筆頭臣下であるコーデンホーフ家のボヘミア、ロンスペルグ古城の伯爵夫人としての人生が始まります。
その間には勿論、国際結婚や格式など様々な問題がありましたが、ミツコは日本の皇后陛下から頂いたお言葉を胸に、日本の名誉を背負って、日本女性としての真価を発揮しますが、残念なことに32歳で未亡人となってしまいます。この間7人の子宝に恵まれ、夫の死後は遺言に従って、13歳を筆頭に7人の遺児の教育と、ボヘミアその他にある広大な所有地の管理継承の責任者となり、ウィーンでは社交界の華と言われるまでになります。
次男のリヒャルトの母の思い出には「母はめったに日本の着物を着なかったが、たまにそれを着てくれるたびに、われわれ子供たちはよろこんだ。ガラスの小さな木箱にしまわれている大切な日本人形そっくりだったからである。よく彼女の室の敷物の上にすわっては筆墨を用いて、長い、長い手紙を書いた。遠い西洋で過ごしている奇蹟にも等しい生活について祖国の両親に知らせるためで・・・・・
彼女は、東京の祖父母からよく送ってくれる日本の絵本の話をしてくれた。桃から生まれた英雄の桃太郎の話、キツネやタヌキが人間にばけた話、その他神々、妖精、幽霊、精霊の話で、・・・・母は老年になってからは、和歌と呼ばれている短い日本語の詩を作って日本の友達に送るのを楽しみにしておりました。」と述懐しています。
そのリヒャルトの提唱した「パン・ヨーロッパ」が第二次対戦後のEEC(ヨーロッパ経済共同体)としてその一部が実現し、そのため、ミツコは「EECの祖母」という名称も贈られています。また先回も書きましたが、ミツコ・クーデンホーフの日本女性としての魅力をイメージしたゲラン社の香水「ミツコ」は今も有名です。