2007年11月26日

明治仏人の京都への旅

ベルソール、京都への道すがら

フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。
 彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。
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引用開始
 一般的に言って、校門が開かれ、教師から白人への反感を植えつけられている生徒たちが路上に溢れる時には、ヨーロッパ人はそこに居合わさないことが望ましい。とはいうものの、生徒の群がヨーロッパ人にぶつかり、罵りの言葉が彼に浴びせられた時には、私は、日本人がどんなに親切で丁重かを思い出すよう、そのヨーロッパ人に勧告したい。最も無礼な子供をも静めるための妙策を、私はずっと以前から教えられている。誰でもよい、子供たちの一人に近寄り、道を聞くか、広場の名前を尋ねるかするのである。罵りを発していた口はたちまち微笑を浮かべる。挑むような姿勢をとっていた小さい体が前に傾いてお辞儀をする。そして、彼の仲間たちも、私が敵であることを忘れて、彼らの父たちが生活の掟としてきた愛想のよさをひたすら私に示そうとする。
 つい昨日も私は、一群の生徒たちにタバコ屋へ案内してもらった。この生徒たちというのが、その一瞬前には、私に石つぶてを投げたかもしれない連中だったのである。「タバコ屋はどこですか?」という私の単純な問いかけが、親切と丁重の伝統をたちまち彼らに思い出させたのである。・・・

 私の記憶に誤りがないならば、ラフカディオ・ハーンは心身を備えた生身の神、老いたる農夫を見た。その農夫は、ある夏の夕方、自分の住んで居る岬から、巨大な津波が押し寄せてくるのに気がついた。水平線の果てに現れたその大波はみるみる巨大に膨れ上がり、陸地に近づいてきて、村人全部をその波間に呑み込んでしまうかと思われた。農夫はためらうことなく自分の手で収穫したばかりの稲わらと穀倉に火をつけた。彼がどんなに叫んでも声の届くはずのない丘の上に、火の手を見つけた村人たちが駆け上がってくるのを願ってのことである。村人たちが感謝して彼のために建てた寺は、この農夫の家から遠くなかった。耕している田畑から、彼はそのわらぶきの屋根を、木立ごしに見ていた。日々の生活の中で、人びとがこの農夫に対して神としての敬意を表していたろうとは私は思わない。しかし、この土地の子供たちは、いつからかこの人物が神の魂を実際に宿したことを知っていた。ヨーロッパの人たちが日本の無宗教について語るとき――ある人びとはそのことを嘆き、他の人びとは、もっといけないのだが、それをほめそやすたびに――人びとは肩をすくめずにはいられない。神がその路上を歩んでおり、その屋根の下に住んでおり、神の誇りとする行為がその存在の目に見える閃光にほかならないと、こんなにも信じている国民を、私はかつて見たことがない。・・・・

明治の名古屋
写真は当時の名古屋城
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 遠くから見る名古屋は、工場の煙と蒸気を噴き上げているように見えた。駅を出て、しだれ柳並木の大通りに立つと、この町が驚くほど近代的な都市に思われた。二輪車、三輪車の類いもずいぶんとうるさかった。さまざまの大きさ、さまざまの型のものがあり、子供の時に見たきり、それ以後見たことのないものもあった。それらの前輪は商店の二階にまで届き、後輪は歩道の高さにも及ばないように思われた。これらを組み立て、かもめのように軽々と飛びかっている日本人たちは、それら屑鉄のような乗物の騒音に酔っていた。
 日清戦争以降、名古屋が大阪に次いで、日本の最大級の工業都市の一つになったことを私は承知していた。この都市の乗物も、市電も、欧米風の商店も、“進歩ホテル”も私を驚かすことはない。しかし、柳並木の大通りから外れ、曲がりくねった小路に一歩入りこんだ途端に、ヨーロッパ文明は跡かたもなく消え失せる。
 ここでは、匂ってくるのは、油で揚げた魚と、線香のにおいばかりである。界隈には、子供と神々がやたらに多い。あたりは、小さいあばら屋、貧弱な寺、屋台店、露店の焼肉屋、大きな庇の下に金網をめぐらしたお堂、石の台座の上でまどろんでいる仏陀、木の祭壇に坐って参詣を受ける狐。どの路地にも、奇妙な大きい果物のようにぶら下がった、同じ形、同じ色の提灯が見られる。何百軒もの店で、陶製の猫を売っている。その、ぴんと立って内側が赤い耳は、縁なし帽のリボンの結び目に似ている。・・・・

 人びとが群っていても、それほど騒がしいことはない。細い竹の棒を操って吉凶を占う易者の言葉も、手を打ち合わせて神に祈る信心深い人びとの声もはっきりと聞きとれる。しかし、この群衆、週の毎日が日曜日のようなこの群衆は、どうやって、何で暮らしているのだろうか? いつもいつも楽しんで暮らしているようなこの人びとを見ると、彼らの神々、香と台所の煙でくすんだようなあの神々が彼らを養ってくれているのかと思いたくなる。・・・・

 東京の下町と同じく、ここでも驚くべき看板を見かける。白地の布に黒い字で書かれた大きな看板である。ある古道具屋は“百万円”という名前である。粗末な魚屋は“七福神”という看板である。七人の神がその買い手を守ってくれんことを。なにしろ、魚屋は、猛毒をもつといわれる魚、ふぐを客に売るのである。そして、人びとは、「ふぐは食いたし、命は惜しし」などと言う。
 ところで、乞食を見かけることはあまりない。寺の階段あたりにうろついていることもない。日本では、まったくの乞食というのはごく少ないのではないかと思われる。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
この記事へのコメント
私たちの周りに空気のように存在する神。それによって日本と日本人は守られている。
小泉八雲の影響かもしれませんが、日本人の「神」に対する考え方や態度をよく捉えていますね。


Posted by milesta at 2007年11月29日 07:46
milesta 様
外国人から見ると、日本人が一見無宗教のように見えるということがいかに間違っているかをよく分かっている方ですね。
それにしても、当時の日本人は暇に見えたようで。
Posted by 小楠 at 2007年11月29日 11:53
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