「シドモア日本紀行(明治の人力車ツアー)」より。
横浜の模様は、山手の外人居住区で、最初に家を建てた人が戸口番号1をつけ次の人が2というように番号を付けたため、数字の順番に関係なく様々な番号が隣り合わせに並んでいることや、弁天通りの骨董品の店、算盤を「滑るボタン付き木枠でカチカチ鳴る計算道具」などと表現しています。
中国人についてはやはり、「居留地の本通り裏手、病人臭い一画に中国人が住んでいます。脂っこい壁、汚い路面は、水路対岸の優美で人形のように愛らしい住宅街とは異なり大いに当惑します。背後の絶壁の上で、風通しのよい茶屋の桟敷の提灯が揺れています。朱の壁紙、袋のような衣服、辮髪、耳障りな声、嫌な臭いがチャイナ・タウンを支配しています」と批評しています。
続いて横浜近郊での記述を少し
引用開始
神奈川を過ぎ東海道を上がるとリチャードソン(生麦事件の被害者)の碑があります。彼は1862年9月14日薩摩の大名(島津久光)の行列に遭遇して斬殺されました。
その日、外国人は東海道に近寄らないように警告されていたにもかかわらず、無鉄砲なブリトン(英国)人たちは、故意に大名行列の中を馬で横切りました。この侮辱が原因で、彼らは家来によって攻撃され重傷を負い、リチャードソンは道端で絶命し、他の仲間は逃走しました。
行列が通り過ぎたとき、一軒家から若い娘が走り出て死体に茣蓙(ござ)をかけました。さらに夜間自分の家に運んで弔い、友人らが引き取りにくるまで隠しました。
日本文字で追悼文の刻まれた石碑が、リチャードソンが倒れた地点に立てられています。事件以来、親切な黒い瞳の娘スーサン(鈴さん?)の茶店は、外人たちのお気に入りの名所となり、彼らは乗馬や馬車でやってきました。その娘さんはつぶらな瞳、鷲鼻を持つローマ人的容貌の背の高い女性で、ヒロインとしてぴったりです。 特に乗馬散策者たちは茶店に立ち寄り、茶、鰻、車えび、蛤、落花生、カステラ、ビールを求め、スーサンに会うことに御執心です。
・・・略・・
日本の家族は、見晴らしのよいところが好きで必ず出かけ、最小単位の住居空間である筵(むしろ)の掛かった建て場(簡易小屋)でキャンプをします。
そこには木炭火鉢、土瓶と五、六個の茶碗セット、緋毛氈を広げた低いベンチが二、三脚備えられています。
山水庭園や景観に一見識もつ国民の情熱は、絶えず美しい景色の見渡せる場所を探し回って確保します。
日ごろ倹約家の主婦も、家族の子供らと一緒に心地よい場所をとるためたくさんの銅貨を払い、山道を行くハイカーに明るい声をかけます。
日本人であろうと外国人であろうと、日本は旅行者にとって特別の国です。日本の至る所に、山登りしたり、渓谷で釣りをしたり、狩猟のため山奥の窪地に身を隠したり、水辺に張り出した狭い岩棚に腰掛けたりできる場所があります。
旅をする誰もが茶店や夏の山仲間、囲炉裏の上でやかんがちんちん沸いている建て場に出合います。また、どこでも湯水、茶、米、果物、卵、茶碗、皿、グラス、コルク栓抜きが簡単に手に入ります。これが当たり前だと思い、清潔な日本の茶屋や居心地よく景色の見渡せる簡素な建て場に慣れ切った旅行者には、この後中国へでも追放されたら、その有り難みがよく分かるでしょう!
引用おわり
日露戦争後、日本に好意的であったアメリカでは、一転して排日の運動が起こります。シドモアはこれに徹底して反対を唱え、米国民から非難され、これに嫌気がさしたシドモアはスイスに移住してしまいますが、死ぬまで日本と日本人を擁護してくれたということです。
2006年05月25日
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本当にそうですね、海外へ行って日本を貶める宣伝をする輩。そのくせ日本国家の恩恵は十分享受する。恥ずかしさというものを持ち合わせない下品な輩です。こんな生き物が大手を振っていられないように国民の意識が変わらなければだめですね。