2007年11月03日

東京裁判弁護資料3

高柳賢三弁護人結語

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
今日も高柳賢三弁護人冒頭陳述で、その結語の一部からですが、第一回は昭和22年2月24日で、全文却下(全面朗読禁止)で、昭和23年3月の最終弁論でようやく全文朗読されたものです。
判決文朗読に聞き入る弁護団
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引用開始
 本裁判の開始以前に、わが法曹界では、いわゆる裁判所条例なるものは、裁判所に対し敵国の指導者を処罰する権限を与え且つこれを命ずるために現行国際法の法則にお構いなく包括的用語を以て規定せられた専断的な裁判指針にすぎないとか、いわゆる裁判所なるものは、司法的機関ではなく刑罰をふり当てる行政的機関にすぎぬとか、条例に表現された聨合国政府の政策と抵触する場合には国際法は当然無視されるであろうから今更むきになって国際法の議論をしてもはじまらない、といったような意見がしばしばささやかれたのであった。

 しかし1946年5月3日、本裁判の開廷に当って裁判長が述べられた「本日ここに会合するに先立ち、各裁判官は、法に従って恐れることなく,偏頗の心をもつことなく、裁判を行う旨の合同誓約に署名した」、「われわれの大きな任務にたいして、われわれは事実についても法についても虚心坦懐にこれを考慮する」、「検察側は合理的な疑の存せぬ程度に有罪を証明すべき立証責任を負う」との言葉によって右のような迷想はほとんど解消したのである。
 法に優越する何者をも認めない英米の法伝統を知る者にとっては、裁判長のこれらの言葉の意味は明々白々であった。懐疑主義者はたしかにこれは面喰ったが、しかしなお「法に従って」とは「国際法に従って」という意味に用いられたのではなく、「条例に規定せられた法に従って」という意味にすぎないのだと言い張った。
 しかしさらに主席検察官がその劈頭陳述において、被告人達は国際法に関する行政府の決定によってではなく、現行の国際法そのものによって断罪せらるべきであり、本条例はかかる現行国際法を宣明せんとするものに過ぎないゆえんを明白にされた。これによってこの疑は完全に解消した。
 主席検察官自ら、コモン・ロオに育まれた著名な法律家である。私人に対する政府の特権を何ら認むることなく、行政府の法解釈も公正な裁判所によって排斥されることを認めるという英米司法裁判の特徴をなすフェア・プレイの精神を体得しておられるのである。そして政府の代表者も判決に於て自らの主張が全部排斥された場合にも、欣然としてこれに服するのである。


 かかるが故に弁護人側は、裁判所が被告人の有罪無罪を決定するに当って、単なる条例の規定の字義通りの解釈によらず、(これによれば「戦争犯罪人」としての責任追及を免れうる日本人はほとんどないことになる)被告人をも含めて万人周知の確立した国際法によって裁判されるべきものと考えたのである。かくして弁護人側は検察側の挑戦に応じて、現行国際法の法則によれば、被告人は釈放せらるべきであることを証明せんと努力したのである。
 かくして、検察側及び弁護人側の双方の共通信念によれば、本裁判は、被告人のみならず、全世界の政府が畏敬すべき国際法の尊厳を象徴すべきである。・・・・
 われわれはこの歴史に先例のない刑事裁判において、その画期的判決をなすにあたり確立した国際法のみに基くべきことを裁判所にたいして強く要請する。法の認めない犯罪にたいして事後法に基き厳刑を科するがごとき正義にもとる処置は、必ずや来るべき世代の人々の心情のうちに遺恨を残し東西の友好関係と世界平和とにとって不可欠な欠くべからざる恒久の和睦を阻害する原因を作ることとなるであろうことは、賢明にして学識ある裁判所は万々御承知のことであろう。

 来るべき世代の東洋の人々が――いな人類全体が――この画期的判決を広い歴史的視野からふり返って眺めるとき、三世紀にわたる期間において西洋の政治家や将軍がその行った東洋地域の侵略について処罰を受けたことが一回もなかったことを想起して、かれらは、東洋の一国の指導者にたいし事後法に基く処罰を行うたことについて大いなる不正が犯されたとの感想を抱くに至るかもしれない。・・・・・
 かかる事後法的処罰は又、今や最高司令官の聡明な指導の下に、新憲法の厳格な遵守、従って又その不可欠の一部をなす事後法による処罰禁止の規定の厳格な遵守を誓約している日本国民にたいして、残酷な模範を示し、かれらの殊勝な熱意を冷却せしめることともなるであろう。かくしてそれはかれらに、勝利者の法と被征服者の法とは別物であるとの深い印象をあたえるであろう。かかる不正は、それは正しい法の支配なる「一つの世界」の建設に役立つことのない権力政治のあらわれに過ぎぬものとみられるであろう。
 そればかりでなくさらに、この歴史的なそして又劇的な裁判において、かような前例が設けられることは、本裁判所に代表せられている戦勝諸国における刑事裁判の将来にも深刻な影響を与えることとなるかもしれない。そうした場合には、「血なまぐさい教訓は、必ずもとに戻って教訓者を苦しめる」という格言が妥当することもあるからである。それ故厳格に法を遵守することこそは、司法的勇猛心の表現であるばかりでなく、裁判所のとるべき正しく且つ賢明な道である。周知のそして確立した国際法の原理を固守することによって、又これによってのみ、「文明」そのものの不可分の要因をなす法至上の灯光は、永久に国際社会を照らし、揺めく灯としてでなく不動の灯明台として、嵐吹きすさむ世界に指標を与えることとなるのである。
引用終わり
posted by 小楠 at 08:41| Comment(4) | TrackBack(1) | 書棚の中の東京裁判
この記事へのコメント
読んでいて、この裁判の理不尽さにまたまた腹が立ってきます。
今の日本でこの裁判について、「勝利者と被征服者の方が別物だという深い印象」を持っている人ってどれだけいるのでしょう。きっと、深い浅いどころか、「何の印象ももっていない」無関心派が大半なのですよね・・・。
Posted by milesta at 2007年11月03日 20:59
milesta 様
これは一応裁判のふりを装ったリンチ、復習劇としか考えられませんね。
原爆の使用といい、まだまだ人種差別の意識を考慮に入れずには考えられないことをやっています。
先ずは戦前までの白人がやっていた植民地民族への非人道的な犯罪から裁くべきですね。
Posted by 小楠 at 2007年11月04日 12:48
 拙ブログにもご訪問、TB有難うございました。
 東京裁判が裁判の名に値しないものであることも、まったく同感です。
 このごろ、パール判事の日本無罪論に対して、重箱の隅を突っつきながら、逆に保守系の論者がパール判決書の都合のよい箇所をつまみ食いしていると論じる連中がわいてきていますが、そんな類の本を書いた中島岳志に、御厨貴が先日読売の書評で、根拠も挙げずに「その通り」などと書いていました。そういう言い逃げにも、とても腹がたちます。左翼の常套手段ですね。
Posted by のらりひょん at 2007年11月04日 19:13
のらりひょん様
>>パール判事の日本無罪論に対して

そのようですね、しかし日本人が何とかして日本を悪に仕立てたいと努力している様にはあきれます。
もともと彼らの目的は正義でも何でもない、日本弱体化でしょうから、このようなことを言い出すのでしょう。
Posted by 小楠 at 2007年11月05日 07:49
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