2006年04月27日

ポーランド孤児を救え

 ネット界では有名なお話だと思いますが、何回読んでも心温まる歴史です。元ポーランド大使、兵頭長雄氏も「善意の架け橋」と言う本で紹介されています。副題は「ポーランド魂とやまと心」ですが、今回は他の書籍を参考にしました。ネット上に出ているFLASHもお借りしておきます。
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18世紀末、ポーランドは内乱につけこまれて、隣国ロシアの支配を許していました。祖国独立を求め、幾度となくポーランド人は蜂起しましたが、そのたびに失敗し、捕らえられた者やその家族は、政治犯としてシベリアに流され、飢餓と寒さと伝染病と戦いながら厳しい暮らしを強いられていました。
 百数十年後の第一次大戦後に、ポーランドはようやく独立を果たします。しかし、まもなくロシアでは革命が起こり、革命軍とロシア皇帝派の戦いはやがてシベリア全土を覆いつくし、その混乱は、当時10万人近くいたシベリアのポーランド人たちをも巻き込んでいきました。多くの人達が殺されていく中で親とはぐれた子供たちが数多くシベリアに残されました。ウラジオストック在住のポーランド人有志たちは、せめて子供たちだけでも祖国ポーランドへ帰してやろうと、1919年(大正八年)9月に「ポーランド孤児救済委員会」を結成します。
 しかし、その後、ポーランドとソ連との戦争が始まり、孤児たちを帰還させることが不可能になります。そこで、救済委員会はヨーロッパ諸国やアメリカに協力を求めますが、莫大な費用が予想される上に、戦略的な価値を見出さなかった欧米諸国は、その依頼に応えてくれませんでした。
 絶望的な状況の中で、救済委員会が最後の望みを託し、向かった先が日本の外務省でした。打診された外務省は、直ちに日本赤十字社に相談を持ちかけます。日赤は、餓死と凍死の危機に瀕した孤児たちに日本で治療を施した後に、ポーランドへ帰還させる方策を決定します。それは救済委員会が外務省を訪れてから、わずか16日目のことでした。

 日本陸軍の支援も得て、765名の孤児たちが日本に招き入れられ、二年間にわたって治療、療育が施されました。

わが国のポーランド孤児たちへの治療と療育は、手厚く行われ、中には、腸チフスの子供を看護し、自らも感染して殉職した看護婦もいたほどでした。
「体中皮膚病にかかり白い布に包まれてベッドに横たわる私に、看護婦さんがキスをして微笑んでくれました。私はこのキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出していました」とかつての孤児アントニーナ・リーローさんは、語っています。
 孤児たちのことが一般に知られるようになると、国内では治療や理髪、慰安会、救援金、慰問品の寄贈などのボランティアの申し入れが殺到しました。「二ヵ年を過ごした日本は天国のような場所」であった、と孤児たちは語ります。日本を去る日、孤児たちは、見送る医師、看護師、近所の人々の首にしがみつき、泣いて離れようとしませんでした。別れを惜しみながらも、孤児たちは精一杯の感謝の気持ちをこめて波止場に並んで、滞在中に覚えた、「君が代」を歌ったのでした。
 日本船に乗せられアメリカ経由で祖国ポーランドに帰還を果たした孤児たちは、養護施設に保護され、それを祝うために首相や大統領までが駆けつけました。この施設では毎朝、校庭に生徒たちが集まり、日本の国旗を掲げ「君が代」を合唱する決まりがあったといいます。
 後に成長した孤児たちは、ポーランドと日本の親睦を主な目的とする「極東青年会」を結成し、組織の活動を通して日本文化のすばらしさをポーランドに紹介していったのでした。
 やがてこの青年会は、ナチスがポーランドに侵攻したときにレジスタンス活動に参加します。その際、わが国は、当時ドイツと三国同盟を結んでいましたが、この青年会のレジスタンス活動を幾度となく援護しました。
 それから七十年の歳月が流れ、平成七年(1995)、わが国の阪神地域を大地震が襲いました。このとき、いち早く救援活動をしてくれた国が、ポーランドでした。さらには、震災で孤児になった日本の子供たち三十人を力づけるために、翌八年の夏休みに三週間自国に招き入れ、歓待してくれたのです。そこには、かつてのシベリア孤児だった人達も訪れ、日本の被災孤児たちに、自分たちが日本に親切にしてもらったことを切々と語り、涙を流してこれで恩返しができたと語っていたそうです。
posted by 小楠 at 10:49| Comment(7) | TrackBack(1) | 書棚の中の日本
この記事へのコメント
以前、小楠さんから「善意の架け橋」Flash 版を紹介されて観ましたが、今日改めて観ました。東洋のまだ小さい一小国であった日本人の素晴らしい国際感覚に感銘を受けます。ホリエモンに代表される今の若者の思考、日教組によってズタズタにされた戦後教育、早急に是正しなければ、今の日本はダメになってしまいます。
Posted by カピタン at 2006年04月27日 12:25
戦後たったの60年で、代々受け継がれてきた大事な日本の文化である「他者への思いやり」が、風前のともしびとなってしまっていることが無念でなりません。
こういうエピソードがたくさんあるのだから、何とか早く教科書に入れたいですね。
Posted by たいげろ at 2006年04月27日 18:49
日本民族というのはもともと平和志向の民族だと思う。
先の大戦では、我々はきわめて好戦的な民族と先方から言われ続けていたが、それは彼らのプロパガンダであって、あの戦争についても最初から最後まで日本の政府は不拡大、回避の道を模索していたではないか。
ところが我が同胞の一部が政府の言うことを聞かずに独断専行したことは事実であるが、それでしかたなく事後承認という形にならざるを得なかったが、基本的には我が政府が平和志向であったことに変わりはない。
中国、韓国の今日の対日批判というのは歴史の一部分のみ切り取って、その部分を自分たちの都合のいいように利用しているに過ぎず、歴史を冒涜するものである。
ポーランドの孤児救出の話し、水師営でのスッテッセルとの会談、トルコ軍艦救助の話し、杉原千畝のユダヤ人救出の話し、これらは我々の民族が民族として如何に平和志向かということを知らしめていると思う。
Posted by Minesan at 2006年04月28日 08:35
コメント有難うございます。
欧米で戦争に明け暮れている間、日本は三百年ちかくにわたって平和な生活を営んでました。もともと平和好きな国民を、嘘で好戦にしたのが他国だけでなく国内にも沢山いることが問題ですね。早くこのような輩を駆逐したいものです。
Posted by 小楠 at 2006年04月28日 16:54
「ポーランド魂とやまと心」何回見ても読んでも聞いても感激しますね。三悪人/犬HK・朝死新聞・日教組が日本をぶち壊したと言っても疑う人は居ないと信じます。嘘八百出鱈目の情報を故意にリークして日本国民に足の引っ張り合いを演じさせる。そんなに日本を"売り"たいんですかねえ、支那臭鮮に。 日本は今ポーランドと同じように思想の"内乱状態"です。隙に付け込まれて支那賤民が大挙して日本を襲って来たらどうすんでしょうか。戦前には居た優れた指導者不在の日本は亡国の道を歩んでいるとしか思えません。もうナマンダブ〜です。悔しいです。
Posted by ケイさん語録 at 2006年04月28日 19:35
>>三悪人/犬HK・朝死新聞・日教組

本当に、これらの末路が早急に来て欲しいですね、特にやくざ集団日教組。
この教師ほど実社会の落ちこぼれは、なかなかいないでしょう。
いっそのこと、公立を全部廃止した方がはやいくらいですね。
Posted by 小楠 at 2006年04月28日 22:50
読んでいて正直、涙が出ました。
戦後、我が国は歴史を如何に捻じ曲げてきたことか。
本来、誇りとすべき事柄が正しく伝えられず世代が代わる毎に、希薄になる現状は正に憂うべき事態です。
中韓の我が国への静かな侵略が成功しつつある中、なんとか本来の誇り高き日本人を取り戻さなければ未来は有りません。
政治、教育、報道を本来あるべき姿に戻すことこそ急務ですね。
Posted by mic_horns at 2010年03月23日 09:37
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モニタの前で涙してしまったポーランド人孤児の物語。
Excerpt: かなり昔の、すでにどこで見たのかも覚えていないネットのフラッシュで知ったお話である。日本人の気質というか、祖先の人々の雄大さに感動を覚える。そのフラッシュだが、某掲示板に貼られているのを見てビックリ。..
Weblog: ネット的記憶装置
Tracked: 2006-07-19 11:37