2007年10月23日

封建的から反動的へ

何に対して反動的なのか

 今回は「徳富蘇峰終戦後日記2」をご紹介しています。以前にご紹介した「徳富蘇峰終戦後日記」の続編で、「頑蘇夢物語」続編として06年12月の発行となっています。
写真は三越デパートでのマッカーサー胸像の除幕式1945年11月
ganso06.jpg

引用開始
(昭和21年4月16日午前)
 ここまで世間で、自分たちの気に入らぬことを、「封建的」という言葉で排斥し去ったが、この頃はまた新たに「反動的」なる言葉を加えて、しきりにそれを振り廻している。ラジオとか、新聞とかでは、耳が痛くなる程それが聞えもし、且つ見えもする。
 例えば今回の選挙は反動的である。何故かといえば、進歩党とか自由党とかいうものが多数を占めているからである。この観察は、外国から見れば一応の理由あるかも知れぬ。何故なれば、米国では日本の議会を米国流の民主主義たらしめんと期待し、ソ連ではソ連流の共産主義の議会たらしめんと期待したが、それが案に相違して、自由党といい、進歩党といい、日本流の民主主義で、天皇護持の下に国運を振興せしめんとするものであるから、彼等の注文通りに行かないことも明白である。それを目して、彼等が反動的という事も、彼等の立場からすればあながちいわんと欲すれば、いい得られない事もあるまい。しかしながら日本人がその尻馬に乗り、否なそれにシンニュウをかけて、反動的議会などという事を、議会の召集もなき前から叫び立てているのは、如何にも奇怪千万の事といわねばならぬ。

 斉しく民主主義というも、銘々の国情に相応すべき者がある。同じ足に履く物でも、同じ頭に冠る物でも、同じ三度の食事でも、皆その国の仕来り、情勢によって、それぞれ特殊のものがある。我等が毎度いう通り、英米の二国は本店と新店の如き関係あっても、米国は米国、英国は英国、チャンとそれぞれ自国特殊の物がある。いわんや日本の国が民主主義を採用すればとて、米国流まる写しという事も出来ず。ソ連流丸呑みという事も出来ず。日本には日本特殊の民主政体を樹立すべきは、別に研究も議論もなく、誰しも承認すべき常識である。ところがそれを目して、反動という事は果して何を以てかくいうのであるか。反動といえば、前に行く者が後ろに行くという事である。左に行く者が右に行くという事である。しかるに今日の進歩党でも自由党でも、共産主義者などから見れば、徐行とか、漸進とかいう事は出来ようが、反動という事は全く事実を誣いたるものである。

 彼等が反動でない証拠は、彼等が憲法に対する見解そのものを見ても、極めて分明である。我等の眼から見れば、進歩党でも自由党でも、余りにアメリカの機嫌気褄を取り過ぎているかの如く思わるる。しかるにこれを目して、反動などという事は全く事実を誣うるものといわねばならぬ。我等は進歩党にも自由党にも、何等の関係もなければ、また贔屓をすべき理由も持たない。しかし事実を事実として見れば、彼等はこの無秩序乱脈の時代に於て、やや小胆ではあるが、穏健にちかきものといわねばならぬ。されば彼等は何等撥乱反正の積極的大経綸を持たぬという非難は、あるいは彼等に下すことも出来ようが、彼等を目して反動的という事は、事実無根である。彼等は決して反動的ではない。普通の時世ならば彼等はむしろ過激派というべきものである。しかし今日の時世に於ては、より以上の過激派が出て来った為に、その比較によって彼等はまず穏健という事が出来る。しかも彼等を目して反動的などという事は断じて無い。彼等は決して逆行せんとする者ではない。ただ出来る限り順序正しく進まんと欲する者である。
 我が日本人は、健忘症に罹ったのではないか。彼等は昨年八月十五日までは、如何なる事を書き、如何なることを言い、如何なる事を為しつつあったか。しかるに今日に於ては、それを一千年以前の事よりも昔のような事として、一切それを忘却し、今日の如きソ米の間に叩頭して、ひたすらその歓心を得ん事をつとめている。ある者は日本をソ連化せんとし、ある者は日本を米国化せんとし、ただ及ばざらん事をこれ努めているという事は、実に意外千万である。今日の日本では、日本人は戸籍の上では七千万以上八千万に近いというが、心からの日本人は幾許あるか。我等は出来得べくんばこの精神的戸口調査をして見たいものと思う。

勝てば官軍、負くれば賊

(昭和21年4月17日午前)
 予が言わんと欲する所は下の通りである。即ち日本人の今日自由主義に謳歌し、民主主義を崇拝し、一切合切アメリカ振りを模倣してただ後れざらん事を期しているゆえんは、つまりアメリカの勝利を崇拝する訳であろう。即ち従来ドイツを崇拝したるその崇拝心が、そのまま米国に乗り移ったものであろう。はなはだ下品なる譬えであるが、日本人の心理状態は、成功随喜の一点張りで、恰も金さえ持っていれば泥坊であろうが、人殺しであろうが、ただ金から金に、胡蝶の花から花に飛び廻るが如き、娼婦とほとんど択ぶ所なしといわねばならぬ。
 予は必ずしも今日のアメリカ崇拝者が悉く皆然りというではない。十年一日は愚か、五十年一日、百年一日、昔からのアメリカ崇拝者も相当日本に居たに相違はない。しかし大体に於ては、昨日剃ったも今道心、今日剃ったも今道心で、俄か作りの崇拝者という事が正しき観察であろう。何故なれば、昨日まではアメリカに対し、悪口雑言、有らん限りの悪罵を浴せかけて、今日は忽ち忘れたるが如く、早変りの米国崇拝者となっているからである。何をいっても功利主義一点張りで、これを以て処世の方針となし、ひいてはそれが立国の方針となるに至っては、国家の前途実に寒心すべきものありといわねばならぬ。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:11| Comment(3) | TrackBack(0) | 書棚の中の国際関係
この記事へのコメント
言っている内容も正しいけれど、文章が明瞭だし、うまいですね。惚れ惚れしてしまいます。

>今日の日本では、日本人は戸籍の上では七千万以上八千万に近いというが、心からの日本人は幾許あるか。我等は出来得べくんばこの精神的戸口調査をして見たいものと思う。

これなど、数字だけ換えて今の新聞で読みたいくらいです。
Posted by milesta at 2007年10月23日 11:42
milesta 様
>>これなど、数字だけ換えて今の新聞で読みたいくらいです。

これは面白そうですねー。
しかし精神的戸口調査などという言葉自体大変な反発を食らうでしょうし、今のマスコミならどんな結果でも作り出してしまうように思います。
Posted by 小楠 at 2007年10月23日 12:57
はじめまして。
ちょっとお訪ねしたいのですが。
自分の文献ですと三越での
マッカーサー胸像の除幕式は
1950年11月28日と
なっているのですがいかがでしょうか。
よろしくお願いします。
Posted by ハガネノセンシ at 2008年12月29日 03:02
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