2007年10月06日

支那事変前の米中日6

元中国駐在米国公使のメモランダム6

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。今回は張作霖親子や中国人についての記述の部分です。
写真は左 長学良、右 蒋介
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引用開始
 長学良は、1928年に政権について以来、父の張作霖が長年やっていたことをまねて来たのだが、ソ連とのこの事件(ソ連を東支鉄道から追い出そうとした事件)においては、国際的な注視を引いただけ力の限界を越えてしまったようである。日本にとって死活的な利害関係のある満洲地域を私領として支配していた張老将軍は、頑固すぎて反感を買うと、いつでも表向きは抜け目なく善隣友好の政策を打ち出し、裏では譲った利益をそっと帳消しにするといったやり方をずっととっていた。
 張将軍の機略は抽象的もしくは理論的な性格のものではなく、極めて実践的なものであった。彼自身、北京から華北を支配していたころ、自分が馬賊の頭領時代に学んだずる賢さをむしろ機嫌よく自慢していたものだ。彼の部下たちは外国公使館の友人に、老元帥が日本人を手玉にとる利口さを、むしろあっけらかんと話していた。
 たとえば、鉱区使用料等について条件を定めた上で、日本のある企業に鉱山採掘権が与えられたとする。まもなく、既定の鉱区使用料以上の取引があるとわかると、使用料値上げの要求がなされる。そして日本側がこれを拒否すると、どこからとなく馬賊が近辺に出没して鉱山の運営を妨害し、操業停止に追い込まれる。そうなると日本企業も情勢を察知し、もっと高価な鉱区使用料を支払うと自発的に申し出る。双方が心底からの誠意を示し合って新しい契約が結ばれる。その後馬賊は姿を消すといった具合である。

 中国人自身の証言によると、満州における日本の企業は、事態を安定させておくという満足な保証すら得られず、次々と起こる問題に対応しなければならなかった。しかし日本人は、張作霖をよく理解し知恵を競い合った。そして西欧化した民族主義者タイプの指導者、例えば郭松齢のような人より、張将軍の方が日本の好みには合っていた。だから、1926年の郭松齢の反乱では、日本が張将軍の方を支援し、郭の反乱は鎮圧されてしまった。
 そこまでは理解可能である。分からないのは、なぜ日本人ガ、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な「支那浪人」の集団であったにせよ――、1928年に張作霖を爆殺したかということである。
(これは最近、ユン・チアンの著『マオ』によって、スターリンの仕業であるとされている。)
 なぜなら張作霖の当然の後継者は、息子の張学良であったからである。

 張学良は危険なほどわがままな弱虫で、半ば西洋化しており、あいまいなリベラル思想と、父から学んだ残酷な手法のはざまで混乱してしまって、あぶはち取らずになっていた。現状での頼りにならない不安定要因が彼であった。日本人と張作霖との関係は、全体的にみて満足できるものではなかったが、どうしようもないというわけではなかった。これに反して、張学良との関係を保つのは、日本にとってたぶん耐えられないものであったろう。だから彼が国民党へ忠誠を表明した時、彼が、満洲での日本の既得権や支配力を攻撃してくる中国の革新勢力の先鋒になると、日本人が考えたのも十分理解できる。・・・・
 人種意識がよみがえった中国人は、故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現のためには向こう見ずに暴力に訴え、挑発的なやり方をした。そして力に訴えようとして、力で反撃されそうな見込みがあるとおどおどするが、敵対者が、何か弱みのきざしを見せるとたちまち威張りちらす。そして自分の要求に相手が譲歩すると、それは弱みがあるせいだと冷笑的に解釈する。中国人を公正に処遇しようとしていた人たちですら、中国人から自分の要求をこれ以上かなえてくれない“けち野郎”と罵倒され、彼らの期待に今まで以上に従わざるを得ないという難しい事態になってしまう。だから米国政府がとってきたような、ヒステリックなまでに高揚した中国人の民族的自尊心を和らげようとした融和と和解の政策は、ただ幻滅をもたらしただけだった。・・・・

 中国に好意をもつ外交官達は、中国が、外国に対する敵対と裏切りをつづけるなら、遅かれ早かれ一、二の国が我慢し切れなくなって手痛いしっぺ返しをしてくるだろうと説き聞かせていた。中国に忠告する人は、確かに日本を名指ししたわけではない。しかしそうはいってもみな内心では思っていた。中国のそうしたふるまいによって、少なくとも相対的に最も被害と脅威を受けるのは、日本の利益であり、最も爆発しやすいのが日本人の気性であった。しかしこのような友好的な要請や警告に、中国はほとんど反応を示さなかった。返ってくる反応は、列強の帝国主義的圧迫からの解放をかちとらなければならないという答えだけだった。それは中国人の抱く傲慢なプライドと、現実の事態の理解を妨げている政治的未熟さのあらわれであった。
 このような態度に対する報いは、それを予言してきた人々の想像より、ずっと早く、また劇的な形でやってきた。国民党の中国は、その力をくじかれ、分割されて結局は何らかの形で日本に従属する運命となったように見える。破局をうまく避けたかもしれない、あるいは破局の厳しさをいくらかでも緩和したかもしれない国際協調の政策は、もはや存在していなかった。
 協調政策は親しい友人たちに裏切られた。中国人に軽蔑してはねつけられ、イギリス人と我々アメリカ人に無視された。それは結局、東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって、非難と転蔑の対象となってしまったのである。
引用終り
posted by 小楠 at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係
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