2007年10月03日

支那事変前の米中日3

元中国駐在米国公使のメモランダム3

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。今回は中国の傲慢非妥協的な敵意についての部分。
写真は蒋介石(右)
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引用開始
 当時、国民党は極端に暴力的となっており、それは内部の抗争によって一層激しくなっていた。この内部抗争は、すぐ後に、ロシア人政治顧問団に対する不信任とその追放劇となり(国共分離)、また蒋介石将軍が実質的な独裁者となるに及んで、党内の抗争は最高潮に達した。この時の紛糾した抗争の歴史は、それ自体大きな問題であるが、ここでは、外国人の生命や権利に影響したり、あるいは脅威を与える場合に限って述べることとしよう。
 蒋介石は、妥協したり、巧みに説得したり策略を巡らしたりする中国人の伝統的能力はすべて持っていた。しかし、自分が欲するものを見分け、決断を下し、断固として行動する力においては、現代中国政治家の中ではユニークな存在であった。
 そのような彼の統率の下に、国民党政府軍は広東から揚子江流域へ向って進撃した。・・・
 この行軍に際し最も注目すべき点は、この軍隊には、政治局員もしくは宣伝部員がかなり前を先行し、進軍の行路に沿って農民の説得にあたっていたことである。北伐軍は、中国人の生計の道を奪ってきた外国人の桎梏から農民を解放し、自由にするためにやって来たのだと宣伝していたのである。孫文の論文が引用されて、中国の対外貿易は輸入、輸出とも、帝国主義者への貢ぎ物であり、中国人の長期にわたる貧困と苦難は、中国の意思に反して強制されてきた対外貿易の結果であるとされた。その底流には、中国民衆の外国人嫌いの心情が限りなく存在し、宣撫の効果は十分であった。
 今まで北伐軍に抵抗してきた地方がつぎつぎと制圧され、蒋介石軍は快進撃を続けて国民的救世主として歓迎された。
 1926年の暮れ、揚子江流域中部の漢口を首都とする政府が成立した頃(武漢政府の成立)、彼らは自らの成功に有頂天になっていたので、列強諸国の代表達を遇するのに常に厳しい態度で接していた。それはかつて、ロシアの共産党政府が最も頑迷だったころに似ていたが、民衆の暴発力を、外国人とその権益に向ってけしかける力を持っているのだぞと、公然と誇示する有様であった。
 このような傲慢にして非妥協的な敵意を前にすると、関係各国政府も状況判断に当り、どうしても「希望的観測」に陥りがちであった。関係各国の外交団は、“愚者の楽園”の日常からでてくるものは幻滅でしかないことを、自分たちの母国政府に理解させることの空しさに悩んでいた。

 外国人の利益はすでに損われているのに、関係諸国が争って中国側の要求に――中国人は外国人を海に放り込みたいだけなのだ――、あいまいに譲歩しつづけることで望みをつなぐなら、事態は破滅的になるだろうということが容易に理解されなかった。外国政府、特に米国と英国は、嵐に屈しようとしたばかりではなく、自国のほうが、他の国より従順なことを中国に示そうと躍起になっていたように思われる。
 現地では前から予測され心配されていた事件が、1927年3月末近くに南京で発生した。
 揚子江下流域に勢力を広げながら、蒋介石軍が意気揚々と南京に兵を進めてきた時、この軍隊の一部が、指揮官の命を受け、外国人の全財産を没収し、これに遭遇した外国人住民を攻撃した。このため、若干の負傷者と六人の死者が出る結果となった。アメリカ領事とその家族は、避難してきた他の諸国の人々と一緒に領事館を追い出され、南京市の郊外を通って揚子江上流の岡の上にある一軒家に追いつめられた。米英の砲艦が艦砲射撃で襲撃者を追い散らし、やっとそこから救出された。
 この艦砲射撃により、南京の中国市民にも多数の死傷者がでた。日本は、南京駐在領事森岡正平の臨機の判断が功を奏し、日本居留民に死者がでることはなかった。また外国側の攻撃に日本は参加していない。

 この暴行からうけた衝撃で、中国国民党の行動は、理想主義的信条を追及することだけではなく、それに付随して危険な風紀の頽廃や外国人への憎しみを作り出すものであり、それを指導者は統制できないし、またするつもりもないであろうことが、ある程度理解されるようになった。そこで関係各国政府は、暴動の突発に備えて自衛措置を講ずることになった。アメリカ公使館は、華北も不安定で騒然としているので、国務省の承認を得て館員の婦女子を避難させ、さらに、国民党軍に占領されている地域、ならびにその進撃路にあたる地域のアメリカ人に退避を勧告した。避難先は軍事力で保護できる上海もしくは天津を指示した。
 北京における主要な公使館の警護は強化され、北京議定書(義和団事件が解決して、1901年9月に成立した連合国との講和条約)によって天津に駐屯していた米国・英国・仏国ならびに日本軍が増強された。米国海兵隊と英国軍のかなりの兵力に加え、艦隊から動員できるだけの陸戦隊員が上海に集中した。日本もまた、済南(山東省の首都)へ大部隊を送り込んだ。
 南京でのこの事件は、これまで国民党の政治運動に共鳴しなかった中国人にも群集心理となって影響した。国中に不穏な緊張が高まった。どこでもいつでも、暴動が突発しそうな気配が漂っていた。・・・
 南京で自国民が殺傷されたり暴行を受けたりした国の政府は、適切な弁償を中国に要求するため、直ちに共同歩調をとった。
引用終り
posted by 小楠 at 07:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係
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