2007年10月02日

支那事変前の米中日2

元中国駐在米国公使のメモランダム2

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。その中のアメリカの親中国感情を記した部分です。
写真は張作霖
mac03.jpg

引用開始
 中国の関税会議への参加が不可能となり、列強諸国が、中国との関係改善の手段として折角利用しようとしていた意図が挫折してしまった事態は、中国の国内政治の新しい展開に伴ったものである。 数多くの小規模な権力妄執者の集団による全く無意味で混乱した闘争から、二つの主な集団が次第に形を現してきた。・・・
 中国北方では、粗暴で反動的な軍事独裁者――張作霖が権力を掌握していた。彼は元匪賊であり、粗野で無節操ではあるが抜け目のない有力な指導者であった。・・・・
 中国南方では、孫文の革命党内における仲の悪い諸派が、ロシア人政治顧問の働きかけもあって歩み寄り、その結果国民党がやっとまとまった政治勢力となって、統一された政治目標を中国全体にわたってアピールできるようになった。・・・
 北方派は、古い首都北京を引きつづき支配し、関税や塩税、郵便行政を管理していたが、それにもかかわらず外交的承認は与えられていなかった。これに対して南方派は、一般大衆の支持をうけて時流にのってはいたが、外国人とその特権に対する憎悪感を激しく煽って広く民衆の支持を得るというやり方をとっていた。・・・・

 しかしながら関係諸国の中でも、特に米国と英国では、中国と中国の要求への大衆的な同情が高まり、その主唱者である南方派あるいは国民党グループにその同情が向けられることとなった。イギリスでは、共産主義者の宣伝が運動の背景にあるのではないかと考える向きもあったようだが、アメリカでは、そんな懸念は見られなかった。アメリカ人は、中国が置かれている諸条件に関して、いくらかナイーブでロマンチックな想定に立っていたかも知れない。・・・・
 このような運動の高まりの背景には、中国に対する米国民の広範な親近感があった。この親近感は、米国政府が、利己的な国々から中国を守ってきてやったのだと信ずる若干恩きせがましい自負の念と、我国の教会組織が、中国での布教活動に支えられて、数世代にわたり中国との好ましい関係を育ててきた実績に負うところが大きかった。この時点で布教活動指導者たちは、自分たちの仕事は、中国の政治的要求を支持する政策によってもっと発展すると確信していた。だから米国政府が、条約上の特別の権利、――特に治外法権・関税制限および教会組織に関する特権――のすべてを放棄するよう、独自に主導権をとってほしいと期待していた。

 このようにして米国内に生まれた親中国感情は、先ず「クリスチャン将軍」と言われた、馮玉祥への支持として具体的な形を表わすことになった。ところが1926年、馮玉祥が権力の座から失脚しただけでなく、彼がソ連の支持を公然と求めたために、外国の支持者たちを幻滅させることになった。そこであまり筋の通った話ではないが、親中国派の力強い支持は、広東の国民党へと移って行った。そして蒋介石が、国民党の実質上の支配権をやがて握り、外国の支持という恩恵を存分に享受するようになる。
 蒋介石の軍隊が南京のアメリカ人宣教師に暴行を加え、このためアメリカの支持が動揺する事件
(1927年3月の南京事件)
が発生した時には、蒋自身がキリスト教徒に改宗すると公言したのである。


 アメリカにおける宗教組織の強力な党派性は、新聞論調にも反映された。中国国民党は1776年(アメリカ独立の年)の愛国精神と二重写しにされ、蒋介石は中国のジョージ・ワシントンと目されることが少なくなかった。このような動きは、アメリカの議会と行政の双方に対し、かなりの圧力となって作用した。ステファン・ポーター下院議員は、米国が条約改正のために、“正当なる権限を付与された中国政府の代表者と直ちに交渉に入るよう”大統領に要請する決議案を提出し、下院を通過させた。・・・・

 この決議は、米国政府に少なからぬ重荷となった。親中国の動きのためアメリカ政府は、“不平等条約”下の我が国の権利を、他のワシントン条約調印国の動向とは一切関係なく、中国のために無条件で放棄せよという圧力を受け、防戦一方に追い込まれるようになった。
 国際協調政策は、利己的な他の諸国の身勝手で反動的な目標に奉仕しているだけであると、広く非難された。米国政府は、公平無私に忍耐強く中国に対する義務を履行し、そしてそれ以上のことまで実行して信頼を得るかわりに、中国の要求をぎりぎりの限界まで無条件に受け入れることをなぜしないか、説明に追われることになった。こうした運動をすすめてきた誠実なアメリカ市民や中国の忠実な友人たちは、自分たちの努力が両国の利害や極東における究極の状勢に、どんなひどい害を及ぼすかについて、全く予想できなかった。・・・・

 中国において責任ある政府という形がすべて消滅するという事態に、列強諸国は直面したのである。関係各国政府は、南北両グループとも、統治権を有する責任政府として扱うことはできなかった。両派とも、地方的影響力以上の権威を有していなかった。両者とも正統政府として要求する利益に伴う対外義務を、民衆の不評を気にせず引き受けるほど強力ではなかった。また実際問題として、他国との関連について両派とも、外国の権利や利権をすべて削るという以外の何の政策ももっていなかった。こうした目的についても、いくつかの党派が互いに協力するわけではなく、ただ列強諸国を無視する点において競争し合っているだけであった。・・・当時の中国には、正常な国際関係を処理できる政府がどこにも存在しなかったので、いずれか一方だけを統一政府とみなして肩入れしたりせず、旅券とかこれにこれに準ずる日常業務は、当該業務を処理できる地方機関と領事によって、局地的に処理するという方法であった。
引用終り
posted by 小楠 at 07:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/5676249
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック