2007年09月18日

中共のチベット侵略8

大嘘報道は共産党の常道

国民党も共産党も、世界に向けては平気で嘘八百を報道してきました。日本はこの中国の嘘をその時々に徹底否定してこなかったことで、未だにその嘘が政治の道具に使われています。
ところで、今回の総裁選について、突然出できた福田氏の優勢報道は、マスコミの国民誘導であり、演説会などでの支持は圧倒的に麻生氏であったことをジャーナリスト水間政憲氏戸井田とおる議員がアピールしています。
マスコミの世論誘導も共産党の虚偽報道も、国民には正確な判断をできなくさせる思想統制という点で瓜二つです。強大な権力を利用する本当に卑劣な手法です、議員の金の問題どころではない巨悪です。注意しましょう。

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真は1959年ラサ反乱で逮捕される2人のチベット人官吏
tibet08.jpg

引用開始
 ラサの反乱は二日間続いた。肉弾戦がいたる所で繰り広げられた。・・・
 しかし22日(1959年3月)の朝には戦局は中共側に傾いていった。圧倒的な兵力と火器、絶え間ない砲撃と相まって、チベット側は食糧、弾薬ともに底を尽き始めていた。
 ノルブリンカに残っていたわずかなチベット抵抗軍は今や徹底的に叩き潰された。屍体は山と築かれ、動けない重傷者は仲間が止めをさしていった、という。悪臭は耐え難く、もはや人間のいる場所ではなくなっていた。ポタラもついに陥落した。三つの僧院は見る影もなくなっていた。“鉄の丘”の医学校は文字通り跡形もなくなっていた。
 残る最後の砦はジョカン寺だった。今やこれまでと押し寄せる信者の群で境内、寺院の隅々まで埋められていった。人々は建物の周りを次第に広がる台風の目のようにぐるぐると回り始めた。“チョラの勤行”が始まったのだ。その数は優に一万人を超え、中共軍にとっては悪夢のようであった。戦火が収まっても、人びとを無事町の外へ連れ出すには二日はかかったであろうと彼らは踏んでいたという。
 しかし相手はそんなに甘くはない。夜明けとともにジョカン寺の美しく飾られた屋根に銃弾が雨霰と降り注いだ。寺院の前に屯していた群衆は機関銃で薙ぎ倒され、カンパ軍も機銃と騎馬隊で応戦した。三時間の激闘の末、双方におびただしい死傷者が出、ついに昼頃になって轟音を響かせながら戦車が登場した。戦車は一度も止まることなく、ジョカン寺の大門を押し倒し、人間を轢き潰し、内庭で急停止した。こうなることは初めから分かっていたが、“ジョホ・リンポチェ――大仏”の目の前でそれがついに現実となってしまった。
 その後、何万人ものチベット人が捕えられ、男女、子供の屍体が道路を埋め尽した。
 マッカーシーによれば(『蓮華の涙』)、無差別攻撃後、中共軍は屍体の中にダライ・ラマがいるかどうか探して回り、負傷者はその場で射殺、死にかけている者は放置したまま調査をつづけた。中共はもちろんこの国民的蜂起を一部地域の騒動に過ぎぬとごまかし、北京は一人のチベット人も死ななかったと嘯いた。それどころか、“解放”された市民は大喜びし、出遭った中国人にカタを差し出し笑顔で迎えて“チュシデライ――おめでとう”と声をかけたと報じた(「北京レビュー」1959年5月5日号)。・・・・

 その頃ダライ・ラマの動静を一部始終把握していた西欧人はCIA要員ロジャー・マッカーシーのみであった。・・・・
 ダライ・ラマはアタとロツェを伴い、3月27日ルンツェ・ゾンに着いた。持っていたトランジスタラジオから最悪のニュースが次々に飛び込んできた。チベットの内閣は解散させられ、パンチェン・ラマとアボが新しい指導者に任命されていた。・・・・
 ラサの反乱軍が押し潰されたからといって、チベット抵抗勢力軍はそれが当たり前の結論とは考えていなかった。一時的な敗北と見ていたのである。角度を変えてみれば、敗北でもなかった。そのおかげでチベット国民は同一の敵に対して団結して戦うことに目覚めたのである。それだけでなく、あの暴動と混乱によってダライ・ラマの国外脱出が実現したのだ。これはその時点における最大の勝利といえる。

 キルティ・ルンドプはいう。
「状況はすこぶる悪かった。でもこれで終わりだなんて誰も思っていなかった。法王はインドで無事だった。我々にとってはそれだけで十分だったのだ」

 チベットへの海外からの関心は最高潮に達した。国際メディアは、チベット国内での目撃者の陳述を掲載し、東西冷戦諸国を問わずダライ・ラマを“時の人”扱いにした。1959年4月20日には雑誌「タイム」の表紙をダライ・ラマの顔が飾った。
 あわてたのは中共側である。何もかも後の祭で“帝国主義者”“反動主義者”と陳腐な文句で罵る以外何もすることができず、揚句に新しい“犯罪者”リストにネール首相を登場させて彼をこき下した。
 盟友扱いしていた中共からの攻撃に、ネールは不意をつかれた。ダライ・ラマ一行に避難所を提供したのは事実だが、それ以上のことは何もしなかった。彼は中共の怒りに油を注ぐのを恐れ、ダライ・ラマの亡命政権を認めようとはしなかった。最初の数週間、ダライ・ラマの亡命すら外国通信社には通告せず、5月まで議会で話題にすることすら禁じていたのだ。

 インド首相は面目を失い、市民の非難を浴びた。国民がどれほどチベット人に同情的だったかまったく気づいていなかったのだ。ネールはなぜ国民を欺いていたのだ? なぜ十年もの間チベットの惨状を伝えようとはしなかったのか?
 インドの主要都市でデモが行われ、新聞の中には、中共がチベットにした行為を強姦になぞらえるものもあった。国際メディアはネールがダライ・ラマを幽閉状態に置いているとまで仄めかした。
 ダライ・ラマは、公開会見の場で誘拐の事実を否定し、中共の残忍なチベット占領を非難した。さらに、十七箇条協定は脅迫によって署名させられたもので、中共はその後何度も協定違反を犯している、と強く非難してその無効を訴えた。
 中共は直ちに好戦的な態度で反論し、特にネールを全面的に批判することで彼をあわてさせた。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 共産主義の実態
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