2007年09月13日

中共のチベット侵略4

中国共産党の裏切り

安倍首相が辞任しました。反日朝日新聞やテレビの執拗で異常なまでの安倍叩きには憤りを感じますが、産経のアンケートを見る限り、朝日の安倍叩きが国民の真意だとは思えません。
 日本はこのような偏向マスコミの一方的報道で、進路を歪められてしまうことがよく判る事例でしょう。年金問題に関する直接責任が民主党の支持団体「自治労」であることなど、ほとんど報道されませんでした。結局被害を蒙るのは一般国民なのですが。
 以下のチベットの問題も、反日マスコミでは報道された覚えがありません。朝日などに対しては根本的に中国共産党の犬だという認識を持って、報道の意図を見抜くことが大切でしょう。

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はゴロク族の僧侶たち
tibet04.jpg

引用開始
 毛沢東はチベットの完全な植民地化にはダライ・ラマがなくてはならぬ存在であることを十分認識していた。彼を力ずくで屈服させることは無謀であり愚の骨頂だとも思っていた。ダライ・ラマは非常に賢明だが、何せ年若く感じ易い年頃だ。いっそのこと北京に引っさらって、チベット国民と引き離し、何千キロと離れた地に長く留めておけば、いつかは我々に靡くだろう。
 毛沢東はダライ・ラマを中国に誘い込む上手い口実を作った。新中国憲法発足祝賀会に賓客として彼を招待するのだ。ダライ・ラマはついに、四百人の随員を引き連れて中国の地に足を踏み入れることになった。ダライ・ラマはダライ・ラマで、たとえそれが罠であろうとこの企画に乗る決心をした。彼も必死だったのだ。・・・・・
 ダライ・ラマに同行した十四歳のパンチェン・ラマ――チベット第二の精神的政治的支柱――は毛沢東の操り人形であった。
“分離し征服せよ”政策は二人の聖なる存在にその通り適用された。・・・
 ダライ・ラマを北京に誘い出した本当の理由は、“PCART――チベット自治区準備委員会”という秘策によって、チベットを完全な支配下に置く道具に利用することであった。自立、自治などとは真っ赤な嘘であり、チベット人の独立心の抹殺を意図していた。・・・・
 ダライ・ラマは“委員会”を謀略ではないかと疑っていた。しかし毛沢東と個人的に接するうちに彼の誠意と寛大さに魅かれてゆき、少なくともチベットのために何かをしてくれるのではないかと信じるようになった。・・・・

1955年3月、ダライ・ラマは大きな不安を胸に抱きつつ北京を発ち、帰国の途についた。そして彼の儚い期待はすぐに打ち砕かれることになった。
 東チベットの生まれ故郷、アムドに足を踏み入れ、クンブム僧院に近づくにつれ、何かしら不吉な予感がダライ・ラマの心に忍び寄った。何かがおかしかった。東チベットにいったい何が起こっているのだ?
 道中中共の警備員が常時つきまとい、住民との接触を妨げた。それでも人びとの表情から、厳しい弾圧が始まっているのが感じ取られた。
「私が人びとに幸せかと問うと、“はい大変幸せに過ごしています。これも中国共産党と毛主席のおかげです”といいながら彼らの目は涙でいっぱいになるのだった。私に対してさえも共産党の決まり文句でしか答えられないのを知って、深い衝撃を受けた」(『チベットわが祖国――ダライ・ラマ自叙伝』)

 アムド地方の荒廃はこの六年間の中共による弾圧で頂点に達していた。アムドの連中は馬鹿で頑固で。恩知らずな上、わが党の政策に敵意しか抱いていない! 中共幹部はいら立つ一方だった。アムド人の非協力振りは徹底しており、中共はそれに対して報復的政策を次々と強制していった。苛酷な税の取り立て、土地の収奪などを推し進め、それでもアムド人の態度が変らないのを知ると、僧侶、尼僧など宗教指導者への広汎な迫害を開始した。・・・・
 1954年、中共軍はゴロク族の僧院数件を焼き払ってしまった。この冒涜行為に憤激した部族民は全面戦争を挑んだ。彼らは深い山岳地帯をバックにゲリラ戦を展開し、待ち伏せしては奇襲をかけ、罠にはまった敵はことごとく皆殺しにしていった。地域の僧侶の多くも喜んで彼らに加勢した。
 怒り狂った中共軍は何人かのアムド指導者を呼び、ゴロク族に武器を差し出させろと命じた。しかしゴロク族は死んでも武器を手離さないのを知っている彼らは、そんな命知らずなことをいってゴロク族に殺されるよりは逃亡した方がましとばかり、アムドをいっせいに脱出し、インドのカリンポンに集結しつつあったチベット人抵抗勢力に身を投じてしまった。その後ゴロク族は遊牧民も僧侶も馬に乗って山岳地帯の隠れ家に逃亡、時機を待って中共軍に奇襲攻撃を加えていったのである。

 東チベット地方はこうした抵抗運動の物語でいっぱいであった。・・・
 東チベットにおけるいわゆる中共軍の“民主改革”はカンパ、アムド、ゴロクの人びとを一挙に反中共抵抗勢力に追いやっていた。中共は、強制労働の他に、二万人の児童を親元から引き離し、“教育”を施すため少数部族民学校に収容させたりして人びとの反感をかった。特にアムドでは道路建設、土地改良によって遊牧民の生活が崩壊させられた。遊牧地が取り上げられ、彼らの独立性、伝統文化の無視など、遊牧民の生活はずたずたにされて大混乱に陥っていたのである。
 中でも中共軍の大きな誤算は、安易な銃器取り締まりに対する部族民の反応であった。中共軍は部族の所有する銃器を一つ残らず登録させようとしたのである。このニュースが伝わるや一夜にして地域一帯から武器は姿を消してしまった。武器は彼らにとって家族、家、宗教を守るための必需品であり、武器を持っていないとさらに疑い深くなるだけであった。それでも武器を取り上げようとすれば戦いは必至であった。武器解除なぞもっての他であり、これまで滅多に近隣部族と手を組むことのなかった部族民同士が密かに連繋し始めた。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:18| Comment(2) | TrackBack(1) | 共産主義の実態
この記事へのコメント
重大な記事有り難うございます。日本の近い将来を見るようです。福田葬祭となればさらに勢いがついて近づきそう…
Posted by 練馬のんべ at 2007年09月14日 21:28
練馬のんべ様
>>日本の近い将来を見るようです。

福田氏の担ぎ出しで、どんどん近づいていくように思えますね。
福田支持の自民党議員は、安倍氏の政策の反対者であるということになりませんか?
これら政策無視の議員である福田擁立派の名前はしっかり記録して、今後は絶対に国会に送らないことが本当に重要に思います。
Posted by 小楠 at 2007年09月15日 07:53
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チベット族は毛主席のご長寿を祝った
Excerpt: 聳え立つヒマラヤ山よとうとうと流れるヤルタンブ河よ私達の思いは山より高く、海より
Weblog: 翻訳blog
Tracked: 2008-07-30 13:05