2007年09月11日

中共のチベット侵略2

中共軍のチベット侵入開始

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
特に人権にやかましい日本のマスコミ等が、現在も行われているこのような事実をほとんど報道しないことで、マスコミがいかに信用できないか、あるいは故意の隠蔽が日常的に行われているかを知り、日本が歩むべき道を間違えないようにしましょう。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はダルツェドの大通りを行進する中共軍
tibet02.jpg

引用開始
1950年3月、チベット国境で数カ月間訓練を積み、満を持していた中共軍はついにカムに侵入を開始した。
彼らはまずダルツェドという商業の町で足を止めた。・・・・
4月中頃までに三万人以上の軍隊が町を通り抜けていった。彼らは第十八軍団の前衛部隊で、チベットの峻厳な地形の情報を収集しながら、次の目的地カンゼ――カムの有数な商業都市――へ向う道路建設の工作隊であった。・・・・
1950年8月までにダルツェドからカンゼまでの自動車道が完成し、この離れ業にチベット商人たちは憂えるよりむしろ大歓迎したのであった。・・・・
中共軍はカンゼで、“牝竜の城”という古いチベット人の砦に司令部を置いた。ニャロンの首長、領袖たちはそこに呼ばれ軍政官に会った。
「初めのうち彼はマルクス主義については余り喋らなかった。代わりに俺たちがいやというほど知っている国民党の腐敗、堕落を非難し、中共政府はそれらを一掃して一般庶民の生活を向上させることを願っている、と力説した。そのためには人民自らの統治が欠かせず、指導者諸君はこの改革の要だ、とね。我々はごもっともと頷き、けっこうなことですと口々にいった」(ジャムヤン・ノルブ)

 デァウポンの故郷、ジェクンドにも中共軍がやってきて、今回は町の下手に大きな陣地を構えた。
「最初、中共軍はジェクンド部族の好感を得ようと一生懸命でした。この地域を占拠する気のないことを散々に宣伝したのです。父はこの地方の行政官でしたから、私も中共軍の指導者たちに会いました。ジェクンドの中国人住民は昔から茶の交易に従事しており、国民党軍と仲良くしていたのですが、中共軍が入ってくるとたちまち彼らに靡きました。彼らは正当な値段で何でも買ってくれ、ずいぶん潤ったのです。女性をとても尊重し、住民は安堵しました」デァウポンは語った。・・・・

デァウポンがつづける。
「ジェクンドにきた中共兵は、それまでの中国人とはまったく違っていました。“あの連中の側にいても怖くなんかちっともなかったよ”叔母はいっていました。砂金採りに来ている男女の側に立って手伝ったり談笑したりしている中共兵をよく見掛けたものです。まったく平和的で、彼らは我々を尊重し、乱暴したり略奪したりはしないんだと思っていました。
 ですが、父は彼らを信用していませんでした。最初からそうでした。表面では上手く振る舞っていましたが腹では信用していなかったのです。よく目を開いて監視しろ、そして余計なことを口にするな、といつもいっていました。父が何よりも警戒したのは、人民解放軍の数が日に日に増えてゆくことです。私たちの手伝いをしにきたというなら、どうしてあんな大軍が必要なんだ。ラマ僧への挨拶の仕方を見て、“あれはまったくのごまかしだ。決して心を許すんじゃないぞ”ってね」
 中共軍が友好的に振る舞ったのは当然といえば当然である。東チベットは中国本土と違って積年の抑圧をはね除けた貧農がいるわけではなかったし、国民党の「赤は反宗教的だ」という宣伝がけっこう浸透していた。毛沢東は自分のやり方をよくわきまえていた。まず辺境地域を手なずけ、僧院にたっぷり贈り物をすることから始めたのだ。

 1950年6月、つかのま中共軍は微笑外交の仮面を剥いだ。ジェクンドとカンゼの間の、戦略的に大切なデンゴという地点にチベット軍の前哨基地があった。中共はそこから送られていた無線を傍受した。当時チベット全体で無線装置は20そこそこだったのだが、そうとは知らない彼らは俄然緊張した。チベットには通信手段が欠けているというのが、毛の戦略の大事な要素だったのだ。直ちに数百人の兵を調査に行かせた。反撃を予想した軍は肩すかしを食った。抵抗してくればある程度チベット軍の力が計れると計算していたのだが、リチュ河を越えた調査隊は、さしたる抵抗もなく無線機を押収し町を占拠した。
 しかしチベット人たちが殺されたため、当然報復が開始された。二週間後ムジャ・デポンという土地の有力部族長が300人のラマ僧を含む約800人の武装勢力を率いて反撃した。不意を食った600人の中共軍は一人残らず殺されたが、不思議なことに中共軍は反撃せず、チベット側もそのことに不審を抱かなかった。新しい敵をやっつけたという美酒に酔いしれていた。
 毛たち軍首脳にとって中共兵士は消耗品に過ぎなかった。しかし次の手を着実に打っていたのである。無線技師から詳しい情報を手に入れ、町の恒久的占拠にどれくらいの兵員が必要か、時期はいつがいいかなどを調べ上げていた。その間地域の連中は好きなように浮かれさせておけ。それが毛たち上層部の計画であった。
 西欧社会は中国がチベット侵略の序章をめくっていることにはまったく気づいておらず、もっと重大な事件に目を奪われていた。
 1950年6月25日、北朝鮮が三十八度線を突破したのだ。チベット国境沿いに展開されていた中共軍の増強には大きな関心を払わず、次の数年間、世界の目はこちらに釘付けになった。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 共産主義の実態
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/5393725
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック