2007年09月07日

南京攻略特派員特電5

南京総攻撃

以前に昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本をご紹介しましたが、今回からはその後編のご紹介をします。こちらは昭和十三年十二月七日発行で、前編と同じく約750ページにもなる分厚い本です。昭和十二年十一月の杭州湾敵前上陸から南京戦そして十月末の広東入城ころまでの特電を集めたものです。
写真は中山門城壁(上)、中華門(中)、光華門(左下)
gates.jpg

引用開始
無錫戦線に散る二記者
【上海朝日特電十一月二十五日発】

 堅塁を誇った無錫が遂に安達部隊及びその他によって完全に占領された。二十五日、第一線に従軍して皇軍の壮烈なる進撃状況をフィルムに収めていた本社映画班前田恒特派員(30)は同日午前十一時半敵弾を受けて壮烈な戦死を遂げ江南戦線における報道陣の花と散った。前田特派員の戦死と殆ど同時に読売新聞特派員渡邊峰雄氏(28)も同地で戦死した。

脇坂部隊決死の突入
【南京城外にて朝日前線通信本部十日発】

 九日午前五時半早くも南京城光華門前面に迫り城壁間近に到達した脇坂部隊は、爾来三十六時間城壁上から猛射を浴せる敵軍最後の抵抗に対し凄壮極まりなき迫撃戦を続けていたが十日午後五時決死的爆破が功を奏し光華門の一部は破壊されたので時を移さず突入、同五時二十分城壁高く日章旗を翻した。
 折柄西に沈む夕陽を浴びて我が一番乗の勇士が力の限り左右に打ち振る日章旗は敵首都南京陥落を力強く意義づけ、これを眺める吾等は感激の涙を禁じ得なかった。
 敵はこの城壁を首都防衛の最後の線と恃み九日朝我が軍が城壁下に達するや続々精鋭を繰り出し分秒の隙もなく機銃を以て撃ちまくり明故宮飛行場その他城内の砲兵陣地からは重砲や迫撃砲を釣瓶撃ちにして我軍を悩ました。我軍は敵のかかる死にもの狂いの抵抗を予期し将士は決死の意気鋭く背嚢をかなぐり捨て唯生の甘藷と弾丸を腰につけて敵と対抗、猛烈な機関銃戦を演じた。
 敵弾雨霰と降り注ぐため最前線と後方とは全く連絡を断たれ、弾薬、糧食の供給は全然不可能になったが、全将兵は城壁の下から一歩も退かなかった。
 かくて朝来薄曇りの空を衝いて飛来する我が空軍の南京城内爆撃と芹澤部隊の砲撃により城内の一廓が崩れ、敵膽を寒からしめたのである。光華門は鉄扉を以て固く閉ざされその上土嚢を積んで厳重に固められているので我砲弾を幾ら受けてもびくともしなかった。午後五時我が決死隊は敵弾雨飛の中を潜って城門口突入爆薬に点火するや轟然たる爆音と共に門の一角に穴が開いた。それッと貴志大尉の一隊、続いて葛野中尉の一隊が城門に突入し五時二十分土嚢伝いによじ登り日章旗を高らかに掲げた。城頭高く揚る万歳のどよめきこれと相呼応して脇坂部隊の全将士の万歳の声は四辺に谺して南京城を圧し直ちに機銃を城壁上に据え城内の敵兵掃討を開始し激戦中である。

残骸の敵首都を行く、
【南京にて十二月十四日、朝日、横田特派員】

 中山門の内外総ての兵士達はもう嬉しさが過ぎて泣いてしまっている。戦いに疲れ切って城門の横に眠っている勇士さえ閉じた眼に一杯涙を溜めて泣いている。その中山門の花形役者青木隊長が頭一杯に包帯巻いて、「無錫からここまで一睡もしません、城門を占領した瞬間、張りつめた力が抜けてヒョロヒョロと立ったまま眠りこけてしまいました」と述懐したのであった。
 城門左側の城壁一帯は我が巨砲に撃たれてまるで
先住居族の住家のように大きな穴が開いている。この城門前一町ばかりのところには我が戦車を防ぐための物凄い戦車壕が大道路一直線に横切り、城門は煉瓦と土嚢が城壁と同じ高さに積上げられ、爆破以外にはこれを開く方法なく如何に敵の防禦が物凄かったかを如実に物語っている。
 城外の遺族学校は蒋介石麾下の軍人の遺族を集めて、特殊の教育を誇った美齢夫人を校長とする学校だが、ここも総て皇軍の日向ぼっこの場所となって、教室に掲げた「徹底抗日」の四字が恥しそうに消えかかっている。
 城門の一部では部隊長が部下を集めて「ここは敵の首都南京だ、お前たちは天晴れ皇軍たる規律を厳守して寸毫も犯してはならない」と堂々と大和武士の本領を説き聞かせていた。・・・・

 城門をよじ登って一歩中山門に入れば、堂々二十四間道路が東西に一直線に貫き明の故宮の美しい緑色の屋根と赤い柱とが昔日の面影をそのまま映し、所謂新生活運動の本城たるその隣の励志社が朝霧の中に低くうなだれている。中山門が開かれ一同万歳の声と共に戦車を先頭に大野部隊を主力として、どっと大南京市に部隊が進入したのは十三日午後三時であった。それから敗残兵掃討が開始された。
 暖かい程の戦勝日和「国威宣揚」と書いた日章旗が市の東方の東京の永田町ともいうべき政治区を意気揚々と進んで行く。
 中山門から向って左側の故宮飛行場に入れば、ここは中国民間の全国第一の飛行場で欧亜航空公司、中国航空公司の待合所がしょんぼりと孤影を大地に投げ、格納庫の中にはまだ新しいユニヴァーサル二機と小型一機とが潜み、わが爆撃のため、ところどころに大穴をあけられた飛行場の片隅には敵機一機が見苦しい残骸を曝している。
 突如その付近の一棟から毛布を背負った敵の正規兵二、三名が現れたが巧みに敬遠した。窓ガラスの割れた中央監察委員会の絢爛たる支那建築を見過ごして抗日支那の本拠中央軍官学校の前道路を入ると前方に土嚢を築いた陰からこれも突如敗兵の射撃だ。蒋介石の居室をのぞき見て慌てて退散、広大な近代式の中央医院の前にも土嚢中から銃眼が鋭く覗いている。
 建築委員会の建物の中は敵の兵舎と化し去って水筒二つが残り、火が燻っているところを見ると、敵はほんの今し方逃げたらしい。・・・・
引用終わり
posted by 小楠 at 07:11| Comment(5) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変
この記事へのコメント
はじめまして。
いつも貴重な記事をありがとうございます。
私の祖父も野戦重砲兵第12連隊の一員として、南京攻略戦に参加しました。蒋介石の座っていた椅子を見たと言っていたのを思い出します。
これからも楽しみに拝見させていただきます。
Posted by 野戦重砲兵 at 2007年09月07日 10:50
野戦重砲兵様
>>私の祖父も野戦重砲兵第12連隊の一員として

そうでしたか、そしたら色々と当時のお話も聞かれたことでしょうね。
御祖父様はご健在ですか?
もしこのような当時の新聞記事をご覧になれば、懐かしく思われるでしょうね。
どのルートで南京へ進撃されたかが分かれば、この本の中に出てくるご祖父様の部隊の様子も探せるかも知れません。
Posted by 小楠 at 2007年09月07日 11:19
小楠様
残念ながら祖父は他界しました。もっと色々南京城内の様子や慰安婦のことも詳しく聞いておけばよかったと悔やまれます。
軍隊手帳が残っておりますので、それによると10/2上海上陸、4文衡堂戦闘、5〜26薀藻〇クリーク南岸攻撃、29〜11/9南翔攻撃、4〜10江〇鎮攻撃、11〜12南翔鎮攻撃、19常熟城攻撃、24〜25東亭鎮攻撃12/10〜13南京攻撃(以下略)のようです。
よく上海の敵前上陸ということを言っておりまして、生涯の誇りでした。
Posted by 野戦重砲兵 at 2007年09月07日 20:40
野戦重砲兵様
残念です。当時の真実を知る御祖父様のような方々がどんどん少なくなってしまいますね。
進軍されたルートは、ここに引用した通りのルートだったのですね。
上海の敵前上陸からの進軍は、大変なご苦労だったでしょう。
書いて頂いた日時、ルートは、この本の内容と完全に一致していました。
貴重なコメント有難うございます。
Posted by 小楠 at 2007年09月08日 08:56
小楠様
こちらこそありがとうございます。
兵士たちの姿が生き生きと描写されている貴重な資料を拝見できて本当に有り難かったです。

Posted by 野戦重砲兵 at 2007年09月08日 12:04
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