2007年08月30日

洗練された日本精神1

礼に始まり礼に終わる

「誇り高く優雅な国、日本」という本をご紹介します。
著者は1873年グァテマラ市に生まれ1927年パリで亡くなった、エンリケ・ゴメス・カリージョという報道文学者で、父親はスペイン貴族の血筋に誇りを覚える保守的な人物ということです。
 大国ロシアとの戦いに勝って西欧諸国を唖然とさせた日本は、当時ヨーロッパ中の注目の的となっていました
 来日は1905年8月末横浜到着となっており、確かな滞在日数は不明ですが、ほぼ二ヶ月後にはフランスへの帰途についたようです。帰路の旅先から、彼はパリにいる友人のルベン・ダリーオ(ニカラグアの大詩人)にあてた手紙の中で「もしあなたが私の葬式で弔辞を述べるようなことがあったら、私の魂が東洋の芸術家のそれであったということ、そして金色に輝く漆で大和の花や小鳥や娘たちの姿を描きたいと願っていたということを忘れずに人々に伝えてほしい」と書き送っています。
では「洗練された精神」と題する章から引用してみます。
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引用開始
 日本人が持つ社会的特性のうちでもっとも一般的な徳が礼儀正しさであることは、偉大な日本研究家でなくとも、またわざわざ観察する必要もないくらいすぐにわかることである。われわれは日本のどこの港であろうと下船するやすぐに、人々の深々としたお辞儀や頭を軽く下げる動作や微笑みを目にすることになるからだ。だれもが微笑み、だれもが平伏している。われわれに何かを教えてくれるときや質問に答えるとき、あるいは何かの説明書をくれるとき、とにかく何のためでも、いつでも、どこでも、日本人はいちいち微笑んでお辞儀をする。さらにこれが対話となれば、一句ごとに雅語を入れねばならないし、一言ごとに頭を下げることとなる。

 日本語には、侮辱語や粗野な言葉がないかわりに、人を誉めそやす言葉は山ほどある。そして彼らは誇りをまるで信仰のように培っている人々でありながら、もっとも謙虚に平伏することを知っている。「日本は微笑みとお辞儀の国であり」とロティは言う、「おびただしい数の行儀作法を有し、それをヨーロッパ人が復活祭のときにすら経験することのない熱心さで行っている」と。これがまさしく、どんなうかつな旅行者でも通りに一歩足を踏みこんだ途端に目にするものである。ましてや民族の魂の中まで入りこみたいと思っている旅行者なら、それがさまざまな形で日本人の生活の隅々にまで行きわたっていることをはっきりと知ることができる。

 礼に始まり礼に終わる。われわれはホテルに着くとすぐに、ボーイ“さん”、御者“さん”という言葉を学ぶ。さらに、どんなに神経が苛立つような困難な状況下であろうと、微笑みと親切さと穏やかさを保つという教えにしょっちゅう出くわすことになる。
 息子を新橋駅から戦地や外地へ送りだして帰途につく母親たちでさえ微笑んでいる。実生活の中のあらゆるものが微笑み、お辞儀をしている。もしわれわれが不運にして、ある人を怒らせてしまっても、われわれを憎んでいるはずのその人自身が微笑み、お辞儀をするのである。

 日本人がもっている礼儀の感覚がどこまで及ぶものであるかを知るには、詩情豊かな昔の物語をひもとけばよい。すると、道をゆく武士の前で自然そのものが頭を垂れ,敬意を表していることがわかる。平家物語はこういう。「波は公達の身体を呑みこむ栄誉に、恭しく場所をあけた」。侍が路上に佇めば、木々は木陰を提供するという素晴らしい名誉に浴する。川は、船の櫂が水中深く入るという喜びを与えられて誇りを感じる。戦場の矢でさえ同様で、恭しく慎み深く敵を殺す。怒りや憎悪のときも、緊急時でさえ優雅な作法がおろそかにされることはない。戦いで死に臨んだ武士が、「貴軍がわが方を打ち破られたことに深い敬意を表する」と敵に言う。勝軍の武将が「降参せよ、されば命を助けよう」と言えば、敗者はこう答える。「せっかくのお言葉にあえて逆らうのをお許しいただきたい。戦に負けた武士は死なねばなりませぬ。ゆえに、わが軍が一人残らず倒れるまで戦わせていただきたい」。

 何かを依頼するときの形式も尋常ではない。昔の手紙には次のような文章が頻繁に見られる。
「私と夕食を共にして下さるという過分な恩恵を私に与えられるご厚意をいただけますよう、慎み敬いお願い申し上げる名誉に浴するものでございます」。
 小説のヒロインなども手紙を書くと、かならず“めでたくかしこ”という言葉で締めくくる。意味は「喜びに打ち震えながらお別れを告げます」である。
 しかし、手紙文の丁重さがいかなるものか、もっともよくわかるのは、ロスニー教授が、その日本文学に関する論文の中で逐語訳した次のような文章であろう。訳すとこうなる。「私の貴方様に対する堅固にして深甚なる敬意のささやかな印を貴方様に捧げることができますよう、またその後、貴方様の高貴なる御み足が踏む崇高なる土埃の中で私が低頭させて戴くことができますよう、充分なる高みにまで私をお引き上げ下さるというご厚意を、貴方様の計り知れないご芳情を以て御心からお引き出し戴くため、貴方様の大いなる御慈悲をもって地面まで下りてきて下さり、この愚かなる貴方様の僕を喜ばせるという輝かしき光栄を賜らんよう、特別の思し召しを賜りますことをお願い申し上げます」
引用終わり
posted by 小楠 at 07:10| Comment(4) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
この記事へのコメント
前に書いたかもしれませんが、我が子たちは英語で話している時には兄弟喧嘩が頻発し、日本語の時はほとんど喧嘩をしません。
学校の先生へ何か連絡の手紙を書いたりするときは、用件だけのメモが当たり前で「日頃お世話になっています。」など書くと冗長だと思われてしまいます。その返事も単語だけだったりしますし・・・。
Posted by milesta at 2007年08月30日 09:46
>>前に書いたかもしれませんが、我が子たちは英語で話している時には兄弟喧嘩が頻発し、日本語の時はほとんど喧嘩をしません。

こんな現象が観られるのですか、これは両方話せるお子様があるからこそ観られることですねー。
これは大変参考になりました。
やはり言葉は大切ですね。
Posted by 小楠 at 2007年08月30日 15:40
金美齢氏の著書にもありましたね。
話し言葉を中国語から日本語に代えると、心穏やかになると。
Posted by おばりん at 2007年08月31日 18:14
おばりん様
>>話し言葉を中国語から日本語に代えると、心穏やかになると。

なるほどと頷けますね。
日本語は常に相手の名誉を傷つけないような表現の仕方が基本になっているように思いますから、お互いに心が穏やかな中で話し合えるようになっているのでしょうね。
Posted by 小楠 at 2007年09月01日 07:32
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