今回は蒋介石秘録(下)より当時の日中国交について引用してみます。

引用開始
共産中国に色目使う日本
日華平和条約が締結(1952年)されたとはいえ、日本と中華民国(台湾)の関係は、いぜんとして、波風の高いものであった。その原因はつきつめれば、日本が、わが中華民国政府を中国を代表する唯一の正統な政府であると承認しながら、一方で、たえず大陸の共産政権に“色目”を使おうとしたことにある。このような態度は、共産党の統一戦線工作のワナに、みずから身を投ずるものでしかなく、やがて1972年の共産政権とのいわゆる「関係正常化」−日華国交断絶という不幸な事態へと落ち込むのである。
日本の大陸接近は、はじめは主として経済的理由にもとづくものであった。
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1972年2月21日から27日にかけて、米国大統領ニクソンは 大陸を訪問、毛沢東、周恩来と会ったのち、上海で周恩来とともに「共同声明」を発表、米国の大陸接近の方針を明らかにした。
米国のこの動きは、日本の焦りをかき立てた。7月6日、佐藤栄作のあとを受けて首相となった田中角栄は、大あわてで大陸接近をはかろうとした。
7月24日、田中角栄は、自民党の「日中国交正常化協議会」に出席、共産政権との“関係正常化”の機は熟したと述べ、さらに周恩来が示した「三原則」を、充分に理解すると表明した。この「三原則」とは「@中華人民共和国を中国を代表する唯一の政府とする。 A台湾省は中華人民共和国の一部である。 B日華平和条約を廃止しなければならない」というものである。田中がこの時点で「三原則」受け入れの方針を示したことは、共産政権にたいする外交上の“降伏”を表明したことにほかならなかった。
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同9月25日、田中と大平は予定通り北平(北京)に向かった。9月29日の朝、台北の外交部政務次長・楊西懇崑は、駐華日本大使・宇山厚の来訪を受けた。
宇山はこの日調印されることとなった日本と共産政権の共同声明の内容を述べ、日本は共産政権と“国交”を結ぶことを告げるとともに「戦後長い期間にわたって、蒋介石総統が日本に示した好意に感謝する」との田中角栄の言葉を伝達した。また大平正芳が共同声明発表後、日華平和条約の“終了”を意味する言葉を述べるであろう、とも述べた。
筋書き通り、同日午前、日本と共産政権との共同声明が発表され、夕刻、予告された通り“大平談話”も出された。
中華民国外交部は同日深夜、対日断交を宣言した。
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第二次世界大戦が終わったあと、日本国民は自由中国との真の「関係正常化」を願った。
しかし、日本は第二の段階で共産中国を選択するという誤りを、またも犯した。日本民族と中国民族の真の「関係正常化」は共産政権を相手にする限り“木に縁りて魚を求める”ことでしかないことに気づいていない日本人も少なくない。
将来の歴史は必ず証明するであろう。中国民族の住む土地には、共産主義による統治は決して長続きしないことを。
引用終わり
戦時中から共産政権との外交は、米国も日本も騙され、戦争を意図せぬ方向に引きずり込まれたりと・・・恥を知らぬ共産政権との常識をもっての外交は、百害あって一利なしということが証明されているにも拘わらず、目先の欲得のために騙され、失敗を未だに重ねようとしています。
しかし、日本としては大陸とは有史以来いつの時代も何らかの影響を受けつつ来たわけで、その意味で大陸が中華民国であろうと共産主義中国であろうと、何らかのパイプが必要だとは思う。
問題はパイプの中身で、この中に主権国家を否定するような言辞、内政干渉のような言葉を弄してもらっては、それを聞く民族の尊厳にかかわるということである。
媚中国会議員というのはその民族の尊厳を放棄している点に問題があるのである。
間抜けというかなんというか・・・彼等は結局自分が得すればいいんでしょうね。
国益なんて考えないんでしょう。
この時期にわざわざ中国へ行くなんて・・・。
お荷物を背負わされて帰らなきゃならないのがミエミエですよ。
それを分かっていて行くんだから、もう言い事はありません。地元の有権者はどう考えているんでしょうかね?
親中派=有能な政治家
↓
親中派=売国奴
と世論のイメージ転換がなされ
日中友好のメッキが剥がれ落ち、媚中議員の権威が失墜しているのが現状でしょうか。
蒋介石秘録もやはり自分が正義の観点で書かれているので、そのまま同意できないことが多いですが、あちらの側から見れば、こんな風になるのかと思いながら読んでいました。
>>親中派=売国奴
確かに最近はこのようなイメージの方が強いですね。談判に乗り込むというような政治家が出ればいいのに。