2007年08月18日

ベルツの日記10

宣戦布告:明治37年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露開戦時の日記を引用してみます。
写真は旅順港閉塞報告丸乗組員前列右から三人目が広瀬武夫少佐(日露戦争古写真帖より)
balz10.jpg

引用開始
2月11日(東京)
宣戦布告――今日は「紀元節」といって、2564年(!)の昔、日本最初の君主、神武天皇が即位した日であるとか。この日を利用して天皇は、対露宣戦を布告した。それは中庸を得た布告文で、どこでも好印象をもって迎えられることだろう。
 旅順沖の大海戦はまだ相変わらず、公式に確認されていない。
午後――
 今なお東郷提督の公報が出ない。非常な憂色がみなぎり始めた。
幸いにして――パリ経由で――アレキシェフ(総督)のペテルブルグ宛の報告が伝わってきた。それによると、日本軍の勝利は、昨夕伝えられたほど圧倒的ではないが、それでも極めて著しいものがある。
 旅順沖の第一戦で戦艦二隻、巡洋艦一隻が甚大な損害をこうむったことは、アレキシェフ自身も認めている。「然れども、これら諸艦はなお水面上にあり」と称するのだ。アレキシェフの第二報によれば、二日目(すなわち九日)戦艦一隻、巡洋艦三隻が水線部に損傷を受け、従って戦闘力を失った由で、しかもこれは、ロシアが極東にドックをもたぬため、決して一時的のものとはいえない。だがしかし、アレキシェフの報告は、日本側になんらかの損害を与えることができたとは、一言も述べていない。
夜――
 ようやくにして東郷提督の報告があった。それははなはだしく控え目のものである。事実その報告によれば、日本側の戦果を、ロシア側の自認しているよりも僅少に推定することすら、あえて不可能ではないくらいだ。
 九日の夜から十日にかけて、大暴風雨があった結果、東郷は自軍の艦艇と、ボートによる連絡がとれなかったらしい。とにかく、今までに露艦九隻が戦闘不能となったのに反し、日本側では著しい損害をこうむったものは、一隻もないことだけは確実だ。・・・・

2月16日(東京)
 戦争の第一報――もっともそれは、誇張されてはいたが――によってヨーロッパのうけた深い感動が、だんだんと判って来た。今度という今度は、さすがのドイツも、無敵ロシアのもろさ加減が、こうも暴露されたのを見ては、いよいよ目を覚まさざるを得ないだろう。なかんずくこれは、あからさまに日本人を軽侮し、一途にロシアを賛美してはばからなかった、東洋におけるわが海軍と役人連中によい薬だ。おそらく今ごろ、かれらの中の若干の者は、昨年の夏、自分と語ったときの話を思い出していることだろう。
 あのとき自分は、日本の方からロシアを攻撃するが、しかもその際、十分勝算があるとの意見を述べたところ、素気なく笑殺された。そして、さすがに日本人を観る点にかけては、かれらの中の誰よりも勝れていると賞められるどころか、反対に、盲目的な日本びいきとして、ヨーロッパ式に物事を量る尺度をなくしてしまったのだといわれた。だが、こんな非難は、友人や親戚の者からもうけて、もう慣れっこになっている。そしてこれは、自己が世の中で観たり覚えたりしたことを、祖国のために役立てようとすれば、誰でもつねにうける非難なのだ。

3月8日(東京)
 日本は韓国と、きわめて重要な協定を遂げた。韓国ならびにその宗室の独立性を承認するも、その施政は、日本の援助によりこれを改善すべきこと。更に韓国は、日本の同意なくしては、なんらの企画、ことに第三国との交渉を行わざることとなった。日本の要求ははなはだ控え目である。まずさしあたりというところか?
 韓国では、この協約締結の衝にあたった李址鎔と、その同僚の一人に爆弾が投ぜられたが、この暗殺の企ては失敗に終った。

 排日派が、またもや京城で活動している。日本側がむざむざその反対派を逮捕させないでいるのは不思議だ。その一人に対し、日本側では訪日を勧めて害を除いた。その男とは、悪賢い李容翊である。かれは目下在京中で、日本の大の知己であるかのように見せかけている。だが、この古タヌキのことは判っているのだ!
 しかし、他の親露派吉永沫と白礼雲は平壌にあって、韓人を煽動しているそうだ。日本軍はもう平壌を占領しているのに、変な話だ。それとも、全く上辺だけでも、韓国内部の事件に干渉するように思われるのを、避けようというのだろうか? それで、日本側では京城の政府に交渉して、あの連中の策動を禁止するよう要請(?)したとか。
 一昨日、京城のドクトル・ブンシュから手紙を受取ったが、最高の敬意を文字に表して、日本軍の規律と態度を述べている。日本軍はかれに非常な感銘を与えたらしい。外交上の出方もまた、節度に適った点で優れていると。

4月12日(東京)
 午後、広瀬中佐の葬儀。国民葬の形をとる。・・・かれの死は悲壮を極めたもので、敵の砲台と軍艦からの激しい砲火の下で、底荷積載の船を、すでに爆沈せしめた後であったが、部下の勇敢な機関部員の安否をも確かめるまでは、身の安泰をはかろうとはしなかった。
 かれは三度、甲板下に赴いたが、結局、その部下を発見することはできなかった。空しい捜索の後、ついにかれがボートに飛び乗ったとき、一発の砲弾がその身を引裂き、ただ「一片の肉塊」がボートに遺されたにすぎなかった。これは鄭重に保存せられ、今日、東京の青山で埋葬された。天皇は後から、すなわちその死後、かれの身分としては破格の位階昇進を許された。

 このような死後の名誉表彰は、ヨーロッパ人には不可解に思われるが、これにより後世の人々すべてをして、輝く栄光の中にその先人を仰がしめ、単にその生涯のみならず、その死もまた、祖国のためであったことを示すのであるから、決して無意義ではないのだ。かれのために記念碑が建てられる由。
引用終り
posted by 小楠 at 07:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
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