2007年08月17日

ベルツの日記9

日露開戦直前:明治37年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露開戦直前の日記を引用してみます。
写真は仁川上陸の第一軍(日露戦争古写真帖より)
balz9.jpg

引用開始
1月2日(東京)
 五時のお茶の時、英国公使館付武官ヒューム陸軍大佐並びに、ジャーディン海軍大尉とエー・バナーマン卿の両英国士官と共に政局を語る。この両士官は当地駐在を命ぜられて、まるで通訳になるかのように日本語を勉強している。だが、ジャーディン大尉は素直に断言した「要するにわれわれは、この戦争だけが目的でやって来たんですよ」と。この言葉は、英国が四ヶ月以前において、既に戦争を必至とみなしていたことを、十分に表明している。

1月3日(東京)
 予想されたとおりロシアは、少なくとも清国に向っては、日本の隠忍を恐怖だと示唆している。こうなってはもう、断の一字あるのみだ。いつのことだ――いつ、日本は馬山浦を占領するのだ! 京城駐在のパウロフ露国弁理公使は、折もあろうに今この時に、馬山浦の土地を韓国に要求するという、高慢な態度に出た! 日本に対する歴然たる侮辱だ!
 一般には、日本側から戦端を開くのも間近いことと観ている。日日新聞ですら、今では結局戦争を、しかも即時の開戦を促す有様である。恐らく日本も、宣戦を布告することはなかろうが、戦端は開くだろう。もしやらなければ、本当にばかだとののしられても仕方がないはずだ。

1月6日(東京)
 日本の強硬な態度は、ヨーロッパに感動を与えた。『ヤパンポスト』紙の一電報によれば、ドイツの新聞も今では、ロシア側の完全な譲歩によってのみ平和を保ち得る旨の見解らしい――これは久しい以前から当地のわれわれが抱いていた見解だが。但しこの譲歩は、文字通り完全なものでなければならんはずだ――というのは、ロシアがこんな譲歩をした場合ですら、それは後日戦端を開くため、単に好機をうかがっているにすぎないことを、日本は余りにもはっきり知りすぎているからだ。従って現在の事態では、ロシアが最後に至って譲歩することは、決して日本の歓迎するところではなかろう。・・・
 現内閣の過度の隠忍振りをあれほどしばしば、しかもあれほど猛烈に攻撃したジャパン・タイムスは、今日突如として、その内閣が、しかもその隠忍自重により『全世界の絶賛』を博した!と、書立てている。
 フランスが、清、韓両国内で政治的の煽動を始めた。北京駐在仏国公使は、速やかにロシアと協調するよう清国側に勧告し、また京城駐在の同国公使は韓帝に、フランスの保護を受けられるよう進言したとか。これは、直接日本に対する敵性行為を意味する。・・・・

2月7日:交渉決裂 戦争!
さあ戦争だ――ないしは、戦争も同然だ。
 日本側の再三にわたる厳重な督促にもかかわらず、いまだになんらの回答にも接せざるをもって、ここに日本は交渉を打切る! 旨、一昨夕、小村外相はローゼン男爵に通達した。
 ローゼン男爵はロシアの利益代理をオーストリア公使に一任したが、引揚げは金曜日になるらしい。
 男爵には誰もが、心から同情を寄せている。男爵が真に日本の知己であることは周知だ。二年半の昔、自分が男爵とその夫人にミュンヘンであったとき、夫妻は日本への深い望郷の念を語っていた。東京への再任命に接したとき、夫妻はしあわせで、心から悦んでいたが、もちろん、いかなる難局がその前途に横たわっていたかを、知る由もなかった。弁明の余地なき自国の侵害的なやり方を代表すべき使命をば、人もあろうに、男爵が引受けねばならなかったことは、全く気の毒である。日本人を毛嫌いした前任公使イスヴォルスキーなら、さだめしこんな使命を快しとしたことだろうに! ・・・・

2月9日(東京)
 今朝、日本側の要求および対ロシア交渉に関する政府の公表があった。それによれば誰でも、日本が我慢し切れなくなって交渉を決裂させたことを、もっともだと思わざるを得ない。もちろん、ロシア政府はこの機会を利用して、日本を平和の破壊者と宣伝している。しかしながら、おそらく何の役にも立つまい。
 事実は、ロシアが厳粛な誓約を守らなかったことから、平和が破られたのに相違ないのだ。日本はその立場を簡明に発表し、その忍耐により世人全般の(少なくとも公平な人々全部の)同情を確保した。・・・・

開戦
 第一報――7日(すなわち一昨日)仁川港碇泊中の巡洋艦ワリヤーク(6500トン)及び砲艦コレ―ツ(1800トン)は、長崎・大連間の連絡に従事する東シベリア汽船の大型新造船二隻と共に、わが軍に拿捕せらる。
 続報――わが軍は仁川に上陸し、直ちに京城に向け、引続き進撃中。・・・
 みじめな状態にあったのは、京城駐在のロシア公使だろう。公使の日本に対する極端な愚弄的態度は有名なもので、日ごろから韓帝に、断固としてロシアに刃向う勇気が日本にあるとは、とうてい考えられないと、吹き込んでいたのである。・・・
引用終り
posted by 小楠 at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
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