2007年08月11日

ベルツの日記6

暑中お見舞い申し上げます。
明日より14日まで休載させて頂きます。

ウタの死を知らせる手紙:明治29年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から今回は最愛の幼い娘を亡くした時の手紙を引用してみます。
写真はベルツ(Wikipediaより)
balz6.jpg

引用開始
2月28日:東京永田町2丁目
 懐かしい皆さん!
 久しくお便りをしませんでしたところ、いま、悲しい知らせでこの手紙を始めねばならない次第です。
 かわいいウタがなくなりました。
 一昨日の朝、食事の時、まだウタは、生れつきの愛嬌を一杯にふりまいて、わたしの側にすわっていました。お昼に、わたしが大学から帰ると、ハナ(妻)は、子供がかぜをひいたようだと申しました。夜になって、重い腹膜炎を起こしたのですが、この病気は大抵は命取りになるのが常です。そして、今から数時間前に、ウタの明るく澄んだ眼は閉じられてしまいました―永遠に。
 子供が病気になった、ちょうどその日、ハナは『少女の祭り』への招待状を書くのにかかっていましたが、この祭りというのは、母上の誕生日である『三月の三日』に、この日本では毎年お祝いされるのです。しかも今回は、ウタも満三歳になる年にあたりますので、特に盛大に祝うことになっていました。初めてウタに洋装させるつもりで、かわいい服がすっかり取りそろえてありました。
 ところが今、わたしたちのするのはそのお祝いではなく、あの子の―お葬いです。


 このような花盛りの美しい子供を、急に失うということは、恐ろしい打撃です。何しろ、誰ともかけ離れて、ウタは、今までに見た子供の中でも、全く特別な存在でした。あの子は母親から、その気質の内面的な快活さと、同時にまた―子供ながらもある程度は認められるのですが―その堅固な性格と不屈の意志を受け継いでいました。特殊の魅力をもつ、あの子のとても大きい利口な眼には、誰もが驚嘆していました。そして、わたし自身がしばしば不思議に思ったのは、知合いの家庭のもう大人に近い令嬢たちが、ウタにまるで夢中だったことです。わたしがこの不審を口に出していうと、いつも与えられるおきまりの返答がこうです――
あの子は他の子供たちとは違いますと。
 トクは、臨終の時、妹の傍にひざまずき、涙にむせぶ声で絶えず祈り続けました「お助け下さい、どうか妹をお助け下さい」と。わたしはトクを、室外へ遠ざけねばなりませんでした、トク自身が病気になる心配があったからです。

 ハナの態度は、ローマの女のようでした。ハナだけは、病気のあいだ、泣きませんでしたし、その声は震えてはいませんでした。しかし、その内心はどんなであったか、わたしにはわかるのです。ウタは、ハナにとって唯一のものであり、すべてでもあったのです。わたしが読んだり、書いたりしている時、ハナはよくやって来て、いったものです「まあ、ちょいと、早くいらっしゃい。ウタが、すっかりご機嫌で、とてもかわいらしく遊んでいるのを見てやって下さい!」と。そしてハナもまた、わたしの友人と全く同じことをいうのでした「まるでうそのようですが、大人でさえ一日中、時のたつのも忘れて、この子と遊んでいられます」と。
 事実、ハナにとってウタは誇りであり、今からその将来までも、はや夢みていたような有様でした。世の中に出て、完全に独立独歩でやれるよう、ウタに学問をさせねばならぬとか、あるいは何か役に立つことを習わしておかねばならぬなどと。―ですから、ハナの冷静の裏にどんな感情が潜んでいたかを、わたしはよく知っていました。それだけにわたしは、最後の瞬間が気がかりでならなかったのです。
 果たして、抑えに抑えていたその内部の力も、ついにその瞬間にいたって爆発し、せきを切った奔流となり、あらゆる感情のすさまじいあらしが、かの女ゆすりにゆするのでした。それは、悲痛にたえかねたのではありません。痛憤きわまりない感情をまじえた悲痛なのでした。それは、現世で最愛のものを奪い去った運命への反抗でした―しかもその子たるや、生まれてから死ぬまで、ほとんど一夜として、かの女に抱かれないで眠ったことはなく、まるでその筋の一つ一つが、かの女の奥底に生えつながっているかのような子であったのです。

 万事休し、呼吸も心臓もとまってしまった時、ハナはあの子の小さい体をひしと抱きしめ、体温を与えてよみがえらせようとするのでした。それから、子供をゆすぶり、泣き叫ぶのです「ウタ、そんな振りをしてはいけません。お前は死んではいないの。死んでなんかいるはずがないのよ」と。そして、自身の息を、子供の口から肺の中へと吹き込むのでした。「さあ、息をしておくれ! ほんの一息でいいから、ほんのひと――一息」。
 今はもう真夜中ですが、ハナもやや落着いています。なきがらの側にひざまずいて、一言も発しません。しかしわたしは、寝るように勧めるつもりです。知合いの女性が二人、お通夜をしてくれています。
 明後日、私たちはかわいい子供を葬るのです。
 思っただけでも、それはたまらないことです! どんなにあの子は、わたしを慕っていたことか。わたしが帰宅する時、馬車か人力車の響きを聞き、召使が日本の風習で「だんなさまのお帰り」と叫びますと、あの子はどんな遊びをしていても、そのままにやめ、ちょうど手にしていたものが何であろうと、すべてをほうり投げ、ちょこちょこと小さな足で大急ぎに急ぎ、両手を広げてわたしの方へかけよって、わたしの脚に抱きつき、わたしが抱いて高く挙げてやるまでは、小さな頭をわたしに擦り付けるのでした。高く挙げてやると、あの子は特有の笑い声をあげるのですが、その声は今でもなお、耳に残っており、わたしにとっては何よりも甘美な音楽でした。
 もう過ぎ去った、過ぎ去ったことです!

 翌朝――
 いや、あまりにもむごい! いろいろな方面からまだ人形や、おもちゃや、美しい色模様の絹の反物など、すべて楽しいお祭りを祝って、小さいウタへの贈り物が参ります。それというのも、今日は、ハナがウタのため、初めての盛大な子供の集会をやるよう、招待を出しておいたからです。しかし今となっては、幼い心を悦ばせるこれらの品々も、死んだ子供の側に空しく置くよりほかはありません。哀れな母親は、全く胸も張り裂けんばかりです。わたし自身も、涙の乾くいとまがありません。このかわいそうな子供が、せめてこの日を楽しむぐらいのことは、許されてもよさそうなのに、なぜいけないのでしょうか?
引用終り
posted by 小楠 at 07:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
この記事へのコメント
>生まれてから死ぬまで、ほとんど一夜として、かの女に抱かれないで眠ったことはなく、まるでその筋の一つ一つが、かの女の奥底に生えつながっているかのような子であったのです。

よくよくわかります。生まれてから、ずっと傍らにいて、母親がいなければ栄養も摂れず安心も出来ない子供は、独立した人間というより、まだ母親の一部なのです。私も「繋がっている」という感覚を持っていました。ハナさんの気持ちが痛いほどわかります。それを男性なのに理解しているベルツさんも、凄いお方です。
Posted by milesta at 2007年08月13日 12:19
この部分を読んだ時は、涙が出る思いでした。
元気が戻ったと思った子供が再度病魔に犯されたこと、そしてお雛祭りの準備が出来上がっており、招待状を送った後の出来事ということで、なおさらでした。
Posted by 小楠 at 2007年08月15日 16:53
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