1948年 ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」からの引用を続けます。
引用開始
スチムソンは、日本が降伏しない場合は11月1日に本土上陸することを決定していたと述べている。そしてこの作戦では「米軍だけで百万の死傷者」を覚悟していたというが、これは恐ろしい決定である。これだけの命が懸かっているのに、私たちは降伏するつもりの(同年3月以降のこと)日本のスポークスマンを受け入れて、降伏の用意があるかないかを確かめようともしなかった。私たちは勝手に、日本は降伏しないと決め付けていた。米戦略爆撃調査の報告を読むと、もし私たちがポツダム会議で日本の意向を聴取していたら、ポツダム宣言も、原子爆弾も、本土上陸作戦も必要なく、降伏を準備できたように思われる。
日本政府の頑迷派に圧力をかけるためなら、女子供の命を蒸発させることも「優れて適切な」手段であるというスチムソン元陸軍長官の言明が、戦争の熱いさなかだけでなく、日本の降伏から一年半も経ったというのに、いまだに記事になり、広く容認されている。この事実は、私たちの選んだ社会理念が、私たちが思っていたほどには明確でなかったことを物語っている。
私たちは他国民の罪だけを告発し、自分たちが民主主義の名の下に犯した罪は自動的に免責されると思っているのだろうか。
疑問はもう一つある。それは対日戦争の最終段階にかかわる疑問である。
私たちは最後の最後になぜあれほど焦ったのか。日本が少なくとも三ヶ月間にわたって、降伏への道を模索してきたことを知りながら、なぜ決断までに11日しか待ってやれなかったのか。
この疑問に対する答えは、アメリカと日本の関係ではなく、アメリカとソ連のやりとりにある。1945年2月7日のヤルタ会談における「最高秘密」合意で、ソ連は中国領内の一定領土及び財産を確保することを条件に、対日戦への参戦を約束した。ソ連としては、彼らが参戦して「合法的」に戦利品を要求できるまでは、日本に降伏して欲しくなかったのだろう。
一方私たちは、もし日本が即時無条件で降伏してしまったら、ソ連は参戦しようがすまいが、日本に侵入してくると見ていたから、日本がソ連に和平条約を提示することを望んでいなかった。そして、日本が無条件降伏をしない場合は、満州と朝鮮に駐留する関東軍をソ連に抑えさせようとし、同時に、ソ連が来る前に日本本土を占領しようとしていたのだ。
もし、この分析が正しく、これ以外に事実を説明できる分析がなければ、わたしたちは日本の一般市民十数万を大量虐殺してでも、早急に結論を出そうとしていたということができる。もしこれに失敗したら、数十万の米兵を犠牲にしてでも、計画通り日本上陸作戦を敢行しようとしていた。私たちが日本人に対してつかった原子爆弾は、日本に対して使ったのではない。なぜなら、日本はすでに完全に敗北していたからだ。
原爆はソ連との政治戦争に使用されたといえる。占領は私たち自身の政治・経済目的を達成するための装置だ。この目的に日本人が関係してくるのは、たまたま日本人が戦略的に重要な島に住んでいるからにすぎないのだ。
2006年03月24日
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我が民族の中の教養をつけた人たちというのは、よほど同胞が憎い存在と映っているのでしょうか。
我々を敗戦に導いた同胞を憎む気持ちはわからないでもないが、結果は敗戦であったが、その後の復興では戦勝国以上に豊かになったではないか。
今の豊かさの裏には同胞の死を賭した活躍があったからで、それが靖国神社だと思います。
コミンテルンから中国に派遣された、マーリンが孫文に「何故革命をするのか」尋ねたところ、孫文は「人を愛するがゆえだ」と答えました。マーリンは「そんな考えでは革命なんてできない。私は人を恨むがゆえに革命するのだ」と言ったそうです。
共産革命は人を恨むところから行動するんですねー。だから残虐も納得。