ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から当時の日本と日本人の姿を引用してご紹介します。
写真は左から二人目、使節団時の岩倉具視(ロングフェローより)

引用開始
それは明治16年の初めのことだったが、ある晩、ドイツ公使館で一人の貴公子然たる青年にあった。あとで判ったが、それは岩倉公の令息だった。青年はわたしの方へ歩みよって尋ねた、
「お伺いいたしますが、先生、ひどい嚥下(えんか)困難を呈する場合は、危険な兆候でしょうか?」――「その方はお幾つです?」――「五十二歳ですが」――「それじゃあ、まあただ事ではありませんね」――「実はわたしの父なのですが」――
青年がさらになお二、三の症状を述べたとき、食堂癌の疑いがあると、わたしは告げておいた。
それから半年あまりは、別に何事も耳にしなかった。するとある日、宮内省と文部省の役人から、至急面談したいとの知らせをうけた。二人の役人は勅令によりわたしに、次の船便で神戸へ立ち、京都で重い病気にかかっている日本の最も重要な政治家の岩倉右大臣を見舞い、出来れば東京へ連れ帰ってほしいと依頼した。すぐさまわたしは、助手を一人伴って神戸へ出発したが、神戸ではもう、わたしを迎える手まわしがすっかり出来ていた。
公はひどく衰弱し、やっとの思いで少量の栄養をとり得るにすぎないような有様だった。六月の末、わたしたちは東京へもどった。――その時、公はわたしから包み隠さず本当のことを聞きたいと要求した。
「お気の毒ですが、御容態は今のところ絶望です。こう申し上げるのも、実は公爵、あなたがそれをはっきり望んでおられるからであり、また、あなたには確実なことを知りたいわけがお有りのことを存じていますし、あなたが死ぬことを気にされるようなお方でないことも承知しているからです」
「ありがとう。では、そのつもりで手配しよう。――ところで、今一つあなたにお願いがある。ご存知の通り、伊藤参議がベルリンにいます。新憲法をもって帰朝するはずだが、死ぬ前に是非とも遺言を伊藤に伝えておかねばならない。それで、出来れば、すぐさま伊藤を召還し、次の汽船に乗りこむよう指令を出そう。しかし、その帰朝までには、まだ何週間もかかる。それまで、わたしをもたさねばならないのだが、それが出来るでしょうね?」そして公は低い声でつけ加えた、
「これは、決して自分一身の事柄ではないのだ」と。
「全力を尽しましょう」
だか、もうそれは不可能だった。病勢悪化の徴候は見るまに増大した。公はほとんど、飢え衰えるがままに任された形だった。永い、不安のいく週間かがすぎた。その時わたしは、臨終が間近なことを知った。わたしは公に、最後の時間が迫ったことを告げた。すると公は、井上参議を呼び寄せるように命じた。公は参議に、声がかれているから、側近くひざまずくように促した。その間わたしは反対側に、公から数歩はなれてうずくまり、いつでも注射のできる用意をしていた。そして終始、寸刻を死と争いながら、公は信ずるものの耳にその遺言を一語一語、ささやきつ、あえぎつ、伝えるのであった。
こうして、疑いもなく維新日本の最も重要な人物の一人であった岩倉公は死んだ。鋭くて線のその顔立ちにもはっきり現れていた通り、公の全身はただこれ鉄の意志であった。
明治21年12月15日(東京)
ここ数日のあいだ、北白川宮の病気の王子をたびたび見舞った。王子は一歳半の、まれに見る美しい幼児である。母君は、有識の誉れ高い大名の一族伊達家の姫君である。
天皇の叔父君にあたる当主の宮は、およそ四十歳で、ちょうど維新の当時1868年には上野の寺で院主だった。宮は僅か二十五歳あまりで、将軍派により天皇に対抗して擁立されたが、のちドイツに派遣され、そこで完全な軍隊教育をうけて、大尉にまで昇進した。口ひげのある、全く西洋人のような外見の、上品な紳士で、優しくてもの静かで、『昔型』のよい日本人だ。
恐らく宮は、いくたび自問されたことだろう――もし自分が天皇になっていたら、いまごろは何をしているかしらと。だがもちろん、そうなれば、今日の宮ではなかったはずだ。洋行もされなかったろうし、プロシャ士官の鉄の試練も経験されなかったはずだ。
先日、大隈外相邸で宴会に出席、黒田首相と大いに語り合った。首相は以前、途方も無く乱暴でかんしゃく持ちのため『気違い黒田』と呼ばれていたが、今ではすっかり人心を引きつける愛想のよさと謙虚さを備えた人物である。とても力が強くて、力技は何でもみな好きだ。首相の考え通りになれば、日本の青年はずっと強くなっていることだろう。だが残念ながら、この点では全く実現性が少ない。
天皇が移られるに先だち、12月10日と11日、新しい宮城の拝観が許された。宮城は、市の中心をなす丘の東南半を占めているが、この丘は周囲と共に広大な御苑を形成しているのだ。昔の将軍の城もここにあったが、明治5年に焼失した。自分の考えでは、現在気象部のある丘の方がよかったのではないかと思う。というのは、そこの方が石崖その他の規模がはるかに大きいからである。そうはいうものの、他国の首都にある宮殿で、この宮城に匹敵するものはなかろう――少なくとも庭園の配置と美観の印象では。
引用おわり