2007年08月01日

フランス青年の明治6

明治、横浜にて
『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は当時の横浜、弁天通り(?)の松飾り
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引用開始
 私たちの住んでいる別荘からは、一年の半分以上雪に覆われた、頂が砂糖の塊に似た富士山や海、山手の坂の素晴らしい景色が見える。一階には食堂と大きなサロンが、二階には寝室がある。ヨーロッパ式の住居の作りと同じで、小さな別棟には、台所と使用人の部屋がある。スタッフはウィ
ル、イトー、ボーイ一人と料理人の四人だ。・・・・・
 この日紹介してもらった数人に、秋の競馬で出会った。先おとといやっと終わったが、この競馬は三日間続き、その間はまさにお祭りだ。香港や上海でもそうだったが、皆にとって競馬はホリデーで、この間、銀行も会社も店も、馬場に行くか、郊外で休日を過ごして息抜きするために休業する。日常的な流れはすべて中断され、現地の人たちも多かれ少なかれ、お祭りの明るい気分を楽しんでいる。
 すでに何週間も前からコースは馬主や調教師の集会場になっており、選抜の名目で走らせている。彼らの馬は、中国のポニーか日本のポニー、または掛け合わせたポニーで、居留者はみな大会のずっと前からずっと後まで、どの馬が勝とうが負けようが、競馬に夢中になる。馬場は私たちの借家から車で十五分のところの山手にある。・・・・

 この日に座を沸かせたのは、朝鮮の使節団だった。・・・・
 公式のレセプションからレセプションへと出席し、新しいものを見る機会に恵まれて非常に喜んでいるようだ。使節団は、愉快で天真爛漫だが、やや粗野な八人だ。競馬には通訳に連れられて羊のようにゆっくりとやってきて、人々のいるスタンドの真ん中にぎこちなく固まっていた。彼らの着ている緑、紫、白や青の服は、あまり清潔とはいえず、針金の大きな被り物(サラダの水切り籠か携帯用食器籠のような形)は、皆の視線を集めていたが、そんなことには一向にお構いなしのようだ。競馬には非常に関心が高く、乗馬への情熱を呼び覚ましたようだ。こらえ切れなくなって、彼らのうちの一人がミカドに走る許可を請うた。

 ミカドと大臣たちは彼らを満足させるために、即刻その場で「朝鮮賞」の創設を決めた。二人の騎手が野外競馬場に入場してきて得意そうな大使を馬に乗せた。合図が鳴り、馬が走りだした。最初のうちは良かったが、そのうち全権委員は徐々に遅くなった。息ができなくて必死にたてがみにしがみついている間に、他の騎手たちはゴールの柱をギャロップで過ぎて行った。
 大使は常軌を逸した競争に目を回して、皇族のいるスタンドの足元に転げ落ちた。服と針金が地面に容赦なく散らばり、競馬場が笑いと歓呼の声で沸いた。

 今月(十一月)の三日は天皇の誕生日だった。この日の東京では、さまざまな催しが行われていた。近衛隊の閲兵式、能の古い舞や外務省での舞踏会などだ。・・・・
写真は大きな西洋館(東京)
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 イギリス公使館の書記官のM・Bのところでの夕食の後、以前外交官のために宴会が行われた場所で開かれている外務省の舞踏会に出かけた。完全なヨーロッパ風の建物の周辺は、ジンリキシャで埋め尽くされていた。ガス灯の列と色とりどりのランタンで飾りつけられた中庭に、停まっているクルマはほとんどない。警官に見張られた玄関前の階段の上には、WELCOMEという大きな字が客を出迎えている。天井は低いが、きれいに花と葉で飾りつけられたサロンは、着飾った人々や、刺繍をあしらった服を着た大臣であふれていた。しかし日本人は少ないうえ、西洋化されすぎている。
 期待していた姫たちはあまり見当たらず、最新の夜会服を着た井上夫人の横には、グレーの地味なキモノを着たご婦人ばかりが目についた。この国際的な集まりは、どちらかというと数人の日本人のためにヨーロッパ人が開いているパーティーのようだ。オーケストラ、ビュッフェ、人でいっぱいの庭で打ち上げられる花火は、ますますこの印象を強調する。

 この夜もまた、例の朝鮮人たちがやって来て陽気になった。彼らの服装はすでに競馬の時に物笑いの種になっていたが、舞踏会では最高に滑稽だった。
 彼らは壁際に、時にはサロンの中央の床に座っている。なかには料理やぶどう酒が気に入った人もいて、ビュッフェから離れない。 テーブルの上のもので気に入ったものを指でつまんだり、隣の人の皿から羞恥の念もなく取り、飾り用のパセリやクレソンの束を一気にのみ込んで、際限なく酒を飲む。夜中には彼らのうちの何人かは完全に酔っぱらって、針金の帽子を被った頭を振りふり、感動して皆に握手を求めていた。これまでの彼らの態度から、食後のため息(げっぷ)が一斉に起こるのは、特に目新しいことでもない。
 明け方の一時には特別列車が、夜の最後の音楽「喜びあふれて」のポルカがまだ耳元で鳴り響いている横浜っ子を乗せて帰った。

 天皇の誕生日の数日後、日本的な祭り、菊の祭が赤坂御所の庭園で開かれることになっていた。毎年二回、桜と桃の花が咲く時と、菊の花の盛りに、皇后と一緒にミカドは庭園を隅々まで見て歩く。この機会に名門の出の人、公使館員と名士の外国人たちを招待する。・・・・・
 赤坂の菊を見たことのない人は、フランスにないこの植物の美しさを想像できないだろう。ここでは、菊は大衆の花であり、君主の花でもある。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
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