2007年07月21日

親日インドネシア人2

インドネシア人の証言2

 朝日やNHKをはじめ、反日マスコミや政党が言う「日本はアジアの国々で悪いことを・・」がいかに事実を隠蔽しているかが分かる調査が、2006年2月3日付けの米メリーランド大学の発表にありました。世界の約四万人を対象にした英BBC放送との共同世論調査で、世界に最も「良い影響」を与えている国は日本であるという結果がでました。
 調査を実施した三十三カ国中三十一カ国で、日本か世界に「好影響」を与えているとの回答が出ましたが、三十一カ国以外の二カ国は、勿論彼の特殊アジアの二国です。その中でも、肯定派が一番多かったインドネシアの人々の証言が書かれた、「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実」という本から、大東亜戦争が侵略戦争ではなかったことを、彼らの言葉から見てみましょう。
1927年生まれ、プロボ・S・スウォンド氏の体験
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引用開始
 私のオランダの友人である将校の息子たちは、みな日本軍など来ない(インドネシアへ)だろうと話していました。また、来たとしても自分たちが反撃すれば必ず勝つと息巻いていました。彼らはみなオランダのプロパガンダを信じ切っていたのです。
 しかし、戦争が始まると、日本がどんどん進撃していき、事実はオランダの話とは全く違っていました。
 これは後に軍事について学んで知ったことですが、ジャワ島の上陸に先立って行われた、スラバヤ沖海戦における日本軍の戦いは素晴らしいものでした。日本海軍は非常に高度な技術を持っていました。ジャワ海はオランダやアメリカ、イギリス、オーストラリアの連合軍艦艇で一杯でしたが、その中で日本海軍は連合軍艦隊を打ち破ったのです。艦から艦への攻撃は難しいものです。日本の攻撃は傑出していました。・・・
 日本はたったの九日間でインドネシアのオランダ軍を撃退しました。そのことを知って、私は軍隊の訓練などを受けるにはまだ小さかったので、戦争の戦術とか戦略といったものは全く分かりませんでしたが、どうも話が違うと思いました。・・・

 1942年に日本軍がインドネシアの学校を再開し、私はその学校へ通い始めました。先生はみなインドネシア人でした。
 そこで、私は真の民族主義者となっていきました。それは一つには、私たちはその学校に通わなければいけないとされ、そして、そこでインドネシア語を習ったからです。それで、私は初めて自分がインドネシア人だと実感したのです。それまで、私は一度もインドネシア語を習ったことがなく、日本の占領下で初めてインドネシア語を勉強したのでした。・・・
 私がPETA(郷土防衛義勇軍)に入ったのは、インドネシアの高校を卒業してすぐのことで、PETAの試験を受けた者の中でも年齢が一番下でした。・・・

 私はPETAの将校になるために、ほぼ一年間、郷土防衛義勇軍幹部教育隊で訓練を受けました。その時の私たちの中隊長のことを、生徒全員が尊敬していました。私も非常に尊敬していました。それは進藤一馬中尉殿のことでした。その中隊の指導者たちはみな実際に中国戦線で戦った歴戦の勇士たちで、・・・・また、中尉殿は私たちに対して一度も罵声を浴びせることもしませんでした。生徒たちと一緒に苦しみを分かつという教え方で、指導中は自ら率先して見本を示していました。・・・
私たちは彼のことを父と感じていました。彼は、私たちが良い将校になることを願っていました。・・・
日本が敗戦した後、私はインドネシア国軍に参加しました。そして、最後には中将にまでなることができました。・・・・
 インドネシア軍は、日本軍が持っていた武器を何とか手に入れようとし、地域によっては日本軍から略奪するところもありました。
 マランでは、大変うまくことが運び、私たちは武器を日本軍から譲り受けることができました。もちろん、公式にはそのようなことは出来ません。私たちは日本軍の司令官と密かに交渉したのです。日本軍は武器庫の鍵をどこかに置き忘れてしまい、私たちがそれを拾ったのでした。


1917年生まれ、スリオ・ウィリオハディプトロ氏の体験
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 インドネシアには三百以上の言葉があります。・・・スマトラ島だけでも二十以上もの言葉があります。
 オランダ政府はこれらのインドネシアの言葉を統一することをさせず、そのために、おたがいの意思の疎通を図ることは大変に困難でした。それによって、インドネシア人同志の団結を阻み民族主義運動を起こさせないようにしていたのです。
 また当時は、オランダ当局者が路上で三人以上のインドネシア人が話をしているのを見ると、インドネシア解放のための集会をしていると見なして、すぐにやってきて解散させました。そうやってオランダ政府は徹底的に独立運動を阻んでいたのです。・・・・

 インドネシアが日本軍によって占領されたことは、私たちにとって幸運でした。さもなければ、インドネシアの独立は遅れていたことでしょう。日本の占領がなかったとしても、恐らく独立は出来たと思います。しかし、果たしてどのくらいそれが遅れていたか、私にはわかりません。
 それ故に、私は日本軍に感謝しています。もちろん彼らがインドネシア人に対して荒々しく、粗暴だったことも事実ですが。
 軍事訓練においても、何かミスをすればすぐに殴られました。ただ、戦場において何かミスをすれば、それは死につながります。だから、そのように厳しかったのでしょう。
 そして私たちインドネシア人は、日本軍の占領時代の厳しい訓練を通じて、戦う精神を得ることができました。戦争前のオランダ時代は、私たちは支配者であるオランダ人の言うことに、ただ「イエス。イエス」としか言えませんでした。しかし今、私たちは「ノー」と言うことが出来ます。
 なぜならば、私たちには誇りがあるからです。
引用終り
posted by 小楠 at 07:14| Comment(5) | TrackBack(0) | 書棚から真実を
この記事へのコメント
勇猛果敢で異国の人に少なからず尊敬された日本人が居たなんて信じられませんね、戦後の骨抜きにされた現代日本人を眺めていると。知略も策略も戦略も潰滅してしまいました。連合国の戦後処理にまんまとはめられたということでしょうか。60年以上も経っているのにいまだに鮮国・支那に恫喝され続けていても尚奮起する者が出てこないんだから重症ですね。
Posted by ケイさん語録 at 2007年07月21日 22:03
再度おれんじです。前回触れたエピソードですが、僭越ながら是非ご紹介させてください。長くてごめんなさい。

阿羅 健一著「ジャカルタ夜明け前−インドネシア独立に賭けた人たち」より
金子智一の話(当時第一六宣伝部青年課長)

*日本が戦争に敗れ、蘭軍と英軍が進駐してきた時の話です。

イギリス軍は十月十七日に進駐して来ました。
バンドンはじめ主な都市には放送局があり、放送局はインドネシアが確保していますから、各地の様子は一日か二日遅れですが、刻々と伝わってきます。イギリス軍がバンドンに進駐してきたころバンドンを沸かせたのはスマラン事件でした。

ジャワ島中部にあるスマランでも日本軍とインドネシアの間で武器の奪い合いがありました。十月十四日の夜、インドネシア人たちが日本人の住宅地に来て、ここは危険だから、と日本人を連れ出し、市内のブル刑務所に入れてしまいました。多くの日本人はインドネシア人に従ったのですが、連行されることに不安を感じた人たちはそれを振り切って日本軍のいる所に逃げ込みました。

邦人が連行されたと聞いて日本軍も黙っているわけにはいきません。その夜遅く、暦の上では十五日暗いうち、日本軍は出動しました。

それを知ったインドネシア人は、刑務所に入れた日本人を生かしてはおけないと、次々と日本人を殺し始めました。刑務所に連行された百数十人の日本人ほとんどが殺されましたが、そのとき、かすかに息が残っていた阿部頌二君が自分の流れる血で壁に、

バハギア ムルデカ 祝福独立
インドネシア独立 喜び死す
日本人万歳 大君

と書いて倒れました。これを、また虫の息で倒れていた高見角次郎さんが見ていて、十六日夕方になって助けに来た日本軍に伝えました。高見さんは山梨県身延山の駅の助役をしていた人で、後に僕は高見さんからこのことを聞きました。血書を書いた阿部君は、慶応大学を卒業して、森永乳業に勤めていた人ですが、私と同じ山形県生まれの人なので、深く心に残りました。

ブル刑務所の壁に書かれた血書は、スマランの日本軍だけでなく、ジャカルタからやってきた軍政監部政務班長の斎藤鎮男君や国務大臣を務めていたサルトノも見ました。

*確かこの血書は今でもインドネシアのどこかに保管されていると聞きました。もしそうなのであれば是非一度あの国を訪れて拝見したいと思います。
Posted by おれんじ at 2007年07月22日 01:55
おれんじ様
詳しいご紹介、有難うございました。
お役に立てるなら、このような史実はどんどんご紹介下さい。歓迎です。
このように、一兵士にも東亜民族の植民地からの解放という意識が行き渡っていたということですね。
東亜解放の戦争であったこともうなずけます。

>>この血書は今でもインドネシアのどこかに保管されていると聞きました

これは直に見ると更に感激でしょう。
もし当地へ行かれて直に見られたら、是非ご紹介して頂きたいです。
Posted by 小楠 at 2007年07月22日 12:28
バリ島出身の友人が教えてくれたのですが、バリ島の人は日本人と結婚したがる人が多いのだそうです。それは、お金持ちだからのようですけれど、根底にはこうした歴史を踏まえた「日本人は味方」という意識もあるのかもしれないですね。
Posted by milesta at 2007年07月26日 20:26
milesta 様
私のバリの友人は、奥さんが日本人で、漫画家です。
その弟の奥さんも日本女性。
結構多いようです。
彼女たちの話では、バリに遊びに行って、そこで「つかまって」と言ってましたよ。
バリの男性からは、「逆たま」と言うようです。
Posted by 小楠 at 2007年07月27日 07:36
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