明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。
レガメは明治三十二年に再来日していますが、今回はそのレガメの「日本素描紀行」からの引用です。
画像はレガメ画の本所の家

引用開始
日本の家屋
今日は女の子の祭りである。数えきれないほどの店が、昔風に華美に着飾った小さな人形を陳列する。そして、いたるところに赤味を帯びた明かりがあって、この妖精の小さな世界のきらびやかな色の衣装を、玉虫色に光らせている。
また、私にとっても祭りである。日本の旧友に再会したのだ。
一昨日、その友人は、新聞で私の名前を読んで昨日、私のホテルに来て、名刺を置いていったのだ。そして今朝、私は答礼の訪問をしに出かける。彼は留守で私より英語を上手に話す奥さんに迎えられる。彼が戻り、率直に感動し合う。われわれは、1881年にパリで別れた。彼は法律の勉強のためにパリに来ていたのだ。一別以来、われわれは会っていなかったし、文通もなかった。一般に、日本人は、容易には文通に応じないのだ――少なくとも外国語では――これは不思議な性格だと見てもよいかも知れない。それでも良い友人でなくなったというわけではないのだ。彼は、私に、自分の家に来て住むように勧めて、その友情を示してくれる。私は少しもためらわずに承知する。
明日から家財道具を移すことになる本所という地区で、私は間近から日本を見ることになるのだ。私は日本人の生活を送り、その秘めた魅力を味わうことができるだろう。そしてそれは、漆を塗った盆の上に置かれたいくつもの小さな皿で出される食事で始まる。この盆は、純然たる日本の二つの道具である、火鉢Chibachiと、長い燭台(行灯)の間に置かれる。
私の新しい住所は、本所、両国橋、元町十八番地(今の墨田区両国一丁目九番地)である。これは快く響く。家は川の左岸に建てられていて、二階建てのいくつかの棟があり、それらは互いに連結している。石垣で囲まれた庭先は水に洗われ、その小さな庭には木が植えられていて、そこから、お茶を飲みほしながら、舟が通るのが眺められるのだ。さらにすばらしいことには、ちょうど真向かいに、富士山がある。はるかな靄の中に、雪の頂きがそびえ、決して飽きることのない景観である。・・・
もう少し日がたてば、少し離れた堀切へ菖蒲を、亀戸へ藤を見に行くだろう。他にも、蓮の花や菊の花があるが、これらは情熱的な庭師の得意とするものであり、彼らは日本を花の王国にしたのである。・・・
小さな女中のオキさんは、すべてを上手にこなし、こぼさない。球のように丸く、少し、垢抜けない彼女が子供っぽくたて続けに笑うと、この家の静かな厳しさは陽気になり、また、厚い蓙(畳)の上を素足で滑るように歩くので聞きとれない足音に代わって、彼女の居場所がわかるのだ。
彼女は部屋を片づけ、料理を手伝い、台所にある井戸で水を汲む。都心を離れると、大部分の家は、中庭に自家用の井戸を持っている。稀には、われわれのところのように、住居の屋内に井戸がある。・・・・
この台所では、金属製品はほとんど使われず、あらゆる容器、さまざまな大きさの桶、鉢、水受け、水桶、盆、そして樽から杓子にいたるまで、すべてが木製である。また、使用人たちの使う楕円の大桶の形をした浴槽(主人たちのも同類である)も同じで、これには水を沸かすための小さな釜が取り付けてある。これらすべてが、申し分なく手入れが行き届いている。
数世紀の間、オランダ人だけが日本人と通商を許されていたが、その近隣の国の人々とまるで違うあの細心な清潔好きの習慣を、彼らは日本人から取り入れたのではなかろうかと、私はしばしばいぶかったものだ。このことについて調査をしたら面白いであろう。
私に昼食を運んで来るのもオキさんである。私が、隣の梅カ香Prunier parfumeというレストランへ昼食をしに出かけないときは、いつも隣家の屋根に住んでいる大きな鳥とその食事を分け合うことになるのだ。ともかく重大な問題は、日本料理の酸っぱさに逆らっているいささか不機嫌な胃のために、栄養を補給することである。日本の食事には、ブドウ酒もパンも牛乳もバターもチーズもないし、砂糖もほんの少し、コーヒーはないし肉屋で売っている肉の代わりに、家禽の肉か狩の獲物の肉であり、それさえもむしろ稀である。また、パンに代わって、水で煮た米、ブドウ酒の代わりが酒である。あとにはもう、生の魚とか焼き魚、卵、練りものを作る野菜、何種類かの海藻しかない。・・・・
私の窓から見える両国橋は、木造技術のたいへん美しい見本である。他に例がないほど、原料の種類と品質とに恵まれた国は、この技術においては抜きんでているのだ。橋床を支えている橋桁は、枠根太と巧みに美しく接ぎ合わされて、橋の堅牢さを保証しているし、それを見れば、満足感が得られるのだ。ヨーロッパの技師の厳しく正確な鉄の建造物を見ても、それは得られないであろう。それなのに、なんと、この辺りにもそれらがのさばり始めているのである。
引用終り
当時の書物を読んでいると、日本の芸術や美術の他に、日本人同士の礼儀や正直というような精神面の高度なことを賞賛しているものが多いです。
そう考えると、日本は物質的に豊かになったけれど、精神面はずっと貧弱になってしまったと、残念でなりません。