2007年07月04日

支那事変特派員の戦死

南苑の最前線で岡部特派員戦死

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、ここでは、「新聞報国」という今の朝日には考えられない活字も見え、朝日特派員の戦死を報じています。今ではゴロツキ新聞としか思えない反日朝日新聞ですが、当時には命がけで国家国民のため取材していた記者が多くいたのです。時は昭和十二年のことです。
画像は巻頭にある写真を紹介しています。
写真は大同占拠の我が軍
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引用開始
【天津朝日特電二十九(七月)日発】
 川岸部隊に従軍して去る二十六日の郎坊における戦闘に鯉登(こいと)部隊の第一救援列車に便乗し逸早く最前線の生々しき実況と皇軍の奮戦ぶりを伝えて銃後国民に報道の任務を果した本社特派員岡部孫四郎氏(二九)は引続き河邊部隊に従軍し二十八日第二十九軍第三十八師の本拠南苑総攻撃に当り、華々しき皇軍活躍の状況を報告すべく最前線に出たが不幸敵弾に当り通信職務遂行のため壮烈な戦死を遂げた。右に関し二十九日午後十一時支那駐屯軍参謀部より天津の本社支局に次の如き電報があった。
『川岸部隊長発電
 御社の記者岡部孫四郎氏は二十八日正午頃南苑の攻撃戦闘中危険を冒して第一線に駆足し、頭部に盲貫銃創を受けて遂に戦死を遂げらるる。誠に痛恨に堪えず謹みて哀悼の意を表す』

新聞報国史を飾る
【天津朝日特電三十日発】

 本社北支事変特派員岡部孫四郎氏は川岸部隊に従軍し、同部隊従軍の各新聞記者の中にあって特に同部隊の信頼を受け、同僚新聞記者と軍との間の連絡係りとして円滑な関係をはかり、同部隊並に同僚から尊敬を受けていた。
 同氏は従軍以来終始勤勉全く不眠不休で俊敏な活躍を続け川岸部隊の記事に写真に独特の機軸を示し、殊に同部隊の活躍を迅速正確に母国に報じていた。
 川岸部隊が天津から更に前進して暴戻支那軍を膺懲すべく二十七日午前二時半、まず鯉登部隊が急遽郎坊方面に出動を命ぜられるや、本社特派の同僚池内記者及び繁田、西橋両写真部員と共に出動、同夜一旦天津に帰府し最前線の従軍記を送るや直に再び川岸部隊の南苑出動の軍用列車に同乗を許されて南苑に赴き。第一線の将士と辛苦危険を共にしつつ勇敢にも第一線奮戦状況報告の任についていた。かくて二十八日正午頃ついに敵弾の犠牲となり壮烈な最期を遂げ報道戦線の尊き責務に殉じたのである。その死は軍人の精神と何等異ならず、新聞報国の強き信念と軍人と同じ御国のために誠を捧げて一身を賭したものである。新聞記者として同氏の如く第一戦にあって壮烈な戦死を遂げたのは恐らく最初のことであろう。

将士と枕を並べ痛まし・全身弾痕
【天津三十一日発・朝日特電】

 二十八日南苑攻撃戦に壮烈な戦死を遂げた本社特派員岡部孫四郎氏の当時の状況に就ては、南苑北平方面と天津との交通、通信一切杜絶して詳報不明であったが三十一日午前十時同氏と終始行動を共にした朝鮮新聞社外報部長小坂定雄氏が漸く南苑方面から帰り、初めて岡部氏戦死の状況が次の如く齎らされた。

 南苑攻撃は今次の事変中にあって稀に見る激戦で、二十八日午前五時半飛行隊の爆撃に次いで川岸部隊は愈々総攻撃に移った。岡部記者は第一線との間に再三往復して原稿を綴り、特に写真撮影については第一線部隊の更に前線に出動して皇軍の活躍をカメラに収めるべく活躍を続けたが、南苑の第三十八師の防戦は頑強で、両軍の戦火の猛烈さは想像の外であった。
 敵は二丈余の城壁と五尺余の塹壕によりて猛射を逞しうした。岡部記者は更に正午川岸部隊嘱託写真班松尾幸助氏(四二)とともに敵弾雨飛の前線へ躍進した。敵の攻撃はいよいよ激しい。我が砲兵隊は城壁の爆破を試み、将士達は更に剣を抜いて城壁に突刺し刀の柄を梯子として城壁を登った。岡部記者も銃丸叫ぶ第一線にカメラと鉛筆を両手に数枚の写真を写し終って身を翻し、後方へ帰ろうとした刹那突然身体を投出すように打倒れた。うつぶせに戦場に横たわった岡部記者はそのまま身動きもしなかった。松尾氏も続いて打ち倒れた。城壁上の支那軍から集中射撃を受けたその瞬間の出来事であった。
 岡部記者は頭部盲貫銃創が致命傷で即死、外に頭部腹部等にも数弾を浴びて居り、松尾嘱託も瀕死の重傷であった。川岸部隊長の計らいで死体は直に収容されたが、腰にした拳銃にしっかり手をかけている岡部記者の戦死には将士らも泣いた。

死の直前・血痕滴たる絶筆
【天津特電一日発】

 南苑攻撃戦の最前線に従軍戦死した岡部本社特派員の遺稿は黄村における戦記に次いで実に二十八日正午南苑前線で認められた最後の一報を入手した。同特派員が死の直前の手記、文字通り血痕滴る貴い絶筆である。・・・・・・
【南苑にて二十八日発】
 川岸部隊は二十七日午後七時半行宮城壁に拠る二十九軍を撃退、逃ぐるを追って一路南苑へと追詰め生残った兵士は南苑二十九軍司令部に入ったが、南苑の二十九軍は二十七日午後より出動準備なし、我に挑戦的態度を示した。
 川岸部隊は南苑に在る一万の二十九軍を攻撃、徹底的に膺懲することとなり、二十八日午前五時半より砲撃を加えて漸次二十九軍を兵舎付近に押込め、午前十時を期して総攻撃に移ったが、敵は兵営前に陣地を構築頑強に抵抗、目下猛烈な迫撃で砲声殷々敵陣地は我が命中弾のため黒煙をあげつつあり、北平近郊の空を覆っているが、今夕までに兵舎は壊滅するものと見られている。
 正午までの我が死傷者は十一名である。一つ一つ黙祷を捧げて行宮に急ぐ。行宮高地は六十米に足らぬ高地が幾つも連って自然の要塞をつくり上げている。登ろうと近寄ったとき続けざまにひゅっと小銃弾が二度三度と重った。今日は別に何の気もしない。ここに登ると黄村へ約一キロの平原が一眼に見える。敵はこの高地に陣取り盛んに機関銃を射って我に浴びせかけた。・・・・・
引用終わり
posted by 小楠 at 07:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変
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