2007年07月03日

支那駐屯軍声明特電

支那事変駐屯軍司令部声明

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、ここでは、不法射撃により何人もの犠牲者を出した支那駐屯軍が我慢に我慢を重ねた結果なお支那軍の不法が治まらず、遂に破局へと向わざるを得ない状況が報告されています。また日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
時は昭和十二年のことです。
画像は巻頭にある写真を紹介しています。
写真は大原城壁歩兵の万歳
tokuden2-3.jpg

引用開始
最後態度決定
【天津二十八日(七月)発同盟】

 支那駐屯軍は最後通牒を発すると同時に左の声明を発表した。
七月七日以来盧溝橋付近に於て支那側の不法射撃に端を発したる日支両軍の紛争事件に関し、日本軍が飽迄事件不拡大の方針を堅持し和平解決に万全の努力を致したるは周知の処なり。然るに支那側は不信不法の行為を反覆し一旦我が要求を承認、調印したる後と雖も其後誠意の認むべきものなく而も通信交通を妨害し、計画的挑戦行為に出で、殊に一昨二十五日夜は軍用線修理のため郎坊に赴きたる部隊に対し、昨二十六日夕は北平廣安門付近に於て我が居留民保護に向える部隊に対し、偽瞞の手段を講じ不法の攻撃を敢てするが如き抗日侮日到らざるなし。
 加うるに梅津・何応欽協定を蹂躙して中央軍を北上せしめ、着々戦備を進むる等暴戻言語に絶するものあり。斯て今や治安は全く乱れ、我が居留民の生命財産は危殆に瀕するに至れり。素より北支治安の維持は日満両国の重大関心事たり事茲に至りては和平解決の万策尽きて、膺懲の兵を進むる外なし、真に遺憾とする処なり。然りと雖も日本軍の敵とする処は抗日挑戦の行為を敢てする支那軍にして河北一億の民衆に非ず。軍は速かに治安を恢復し東亜民衆の福祉を増進せん事を期するものなり。
 北平城内に於ては支那側が求めて混乱を惹起し、戦禍を誘発せざる限り武力を行使するが如き事はなく又、列国の権益を尊重しその居留民の生命財産の安全を期するは論を俟たざる処にして、況や領土的に北支を占領せんとするが如き意図は断じて之を有せざるものなり。右声明す。

総攻撃開始、平津各地に激戦
【北平朝日特電二十八日発】

 我が最後通牒において二十七日正午を期限とせる盧溝橋、八寶山第三十七師撤退は遂に支那側において何等の誠意を示さざりしため、我方は通告通り同日午後より敢然自主的行動を開始して支那軍に絶大の損害を与え、更に二十八日黎明に至り爆撃、砲撃の偉力を以て痛烈なる攻撃を加えた。最後通牒の第二段に示された北平城内及び西苑部隊の撤退並に移駐開始は二十八日正午を期限としてあるが、是亦遂に支那側の誠意ある実行を見るを得ず、却って市中に兵力を増大し抗日準備を厳にする等交戦の気構え明かとなったため、ここに我軍は二十九軍全軍に対し愈々総攻撃を行うべき最後の事態に到達、膺懲の火蓋を切った。

溜飲下る爆撃の快音 
北平二十八日発・朝日特派員 進藤次郎

 北平籠城第一夜は勇ましき我が飛行機の爆音と共に明けた。
 すっかり覚悟を決め身一つでこの交民巷に引揚げて来ている邦人一同は、狭くるしい不便な寄合世帯にも拘らず、極めて静かに十分の安眠をとることが出来た。
 二十八日朝は雨模様で割合に涼しく避難民といったような気持ちもせず、うつらうつらとしていると、どこからともなく快い飛行機の爆音が響いて来た、だんだん近付いて来ると思う間もなく飛行機○台が北平西南方の空をぐるぐる大きく旋回し北平の真上に飛んで来た高度三、四百米、恵通公司機である。
 あちらこちらでビラを撒布しているのが煙を吐いているように見える「北平の市街を戦火の巷とするに忍びないから、今の中に早く撤退しろ」との城内にある二十九軍に対し警告ビラと交民巷以外に居住する在留外人及び支那人に対する避難勧告ビラを無数に撒き散らして、幾度も幾度も旋回を続ける。
 突如西南方の遥彼方でド、ド、ドーンと腹のそこまでこたえるような轟音が起り始めた。我が飛行機の爆撃に違いない。二十七日警告の期限が過ぎても撤退を肯じない盧溝橋、八寶山あたりの敵を爆撃しているのだろう。そしてこれは同時に未撤退の他の支那兵に「お前達も何れ同じ運命だぞ」といい聞かせているようなものだ。大掛りな城壁で取巻かれてこそおれ、空に対してはまる裸の北平である。我が飛行機は見えぬが聞くだに胸のすくような爆撃を続けて居るのであろう。

 避難邦人達はこの物音に今まで二十日余り、いや何年間か胸につかえていたものが一時にぐっと下がったような気持ちになった。窓という窓から一斉に首を出して頼母しげに見守って「やれー! やれー!」と叫んで居るものもある。・・・・
 二十七日夕、日本人と独伊両国人が引揚げ、二十八日には英米仏三国人も全部交民巷に閉じこもって交民巷の三方の入口は固く閉鎖されてしまい、電報の発信は途絶し、長距離電話も駄目、軍用電報すら全く支那の妨害にあって杜絶してしまった。
 今日残るは少数の無線連絡あるのみである。二十八日午後からいよいよ我軍の空陸共同作戦の総攻撃が始まり城外各所に遠雷のような轟音がヒッキリなしにあがっているのが聞えてくるが、どこがどうなっているのか一向に知る由もない。
 特務機関や武官室さえ前線との連絡がなく完全に戦況は判らない。避難民一同が戦況ニュースに飢えているところへ、支那新聞社や外国通信はデマを盛んにふりまき、まさかと思いながら爆音の響く空の彼方を眺めていると、日の丸をつけた飛行機が荒鷲のような勢いで飛来し交民巷の無電のアンテナをすれすれに飛び来りさま突然搭乗者の一人が体をひどく乗り出したかと思うと、何か小さなものを邦人避難者の広場に投じて機首をぐっと上げて○○方へ消えて行った。果してそれは通信筒落下、内容は至極簡単で『北平の皆さんご安心下さい』と・・・
 たった十五字ばかりの空からの贈物は二千数百人の避難民の気持ちをすっかり安心させてくれた
引用終わり
posted by 小楠 at 07:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変
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