2007年06月28日

盧溝橋特派員特電4

国民政府武力解決の最後案

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
 自分たちの違反行為を日本側の責任に転嫁して、それを世界に向け宣伝する。昔からのシナの卑劣なやり方です。
巻頭にある写真を掲載しておきます。
写真は永定河の敵陣地
tokuden03.JPG

引用開始
【上海東日、大毎特電七月十二日発】
 十一日夜発表された国民政府の声明は国民政府としての北支事変に関する最初の公式意思表示として注目されるが、その内容において明らかなる如く事件の責任を悉く日本側の発砲に転嫁し、今日なお事態が緩和されないのは日本の違約に基くものであるとし、さらに最後に極東は危険に瀕するを免れないとして言外に日本側の行動に対する反撃政策をほのめかしていることは事件に対する南京側の強硬政策を明らかにしたものとして極めて重大視されている。
 この政策は今後の国民政府の動向を指示するものとして北支における協定成立の如きも全く無視され、両軍対峙のまま支那側が今後如何に積極的に出るかについて万全の策を講じつつある模様で、南京における政府首脳部の重要会議の結果をもたらして、軍政部長何応欽は十二日中に廬山に急行し、国民政府の最後案として蒋介石の決定を仰ぎ、直ちに具体行動にとりかかる模様である。右最後案として伝えられるところでは、
一、南京、冀察両当局を通じてあくまで日本の要求を拒否し、責任を日本に転嫁すること。

二、これが外交交渉の後楯として日本側派兵に対応して中央軍の精鋭を続々北上せしめて武力解決をも辞せざること。

三、国際的関心を喚起するため、事件の責任が日本にあること、日本軍の北支における行動は全く条約違反であることを欧米諸外国に向い宣伝につとめること。

であって、早くも王外交部長は在外各大公使に事件の経過とともに各国政府の注意を喚起するよう電命した。かくの如く今や国民政府は極度に緊張し最近帰任の予定であった許世英駐日大使にも在京命令を発して政府の諮問に応ぜしめている。

北平の邦人遂に引揚ぐ
【天津朝日特電十二日発】
 戒厳令下の北平は今不安のどん底にある。北清事変の苦い経験を思い起す古い在留民達はもとより最近の声ばかりの北支明朗の波に乗って押し出した多数の在留邦人達は一体どうなることやらと、何も手につかぬ有様だ。
 信義を無視する支那軍は幾度か約束を破って我が方に挑戦して来る。而もその兵力は刻々増大して何時如何なる重大事が勃発するかも知れぬ情勢にあるのだ。 この不安な北平の刻々迫りつつある不気味な空気を前に在留邦人は十二日以来続々引揚げを開始した。手近な天津の日本租界を目指す人達、天津から更に船で、汽車で満洲へ内地へと引揚げる人達の物凄いラッシュだ。十二日午後六時北平発津浦線は、夜の厳戒に先立って北平を脱出しようとする婦人子供を中心とした邦人の群で満載だ。かくて危機は刻々と迫ってきた。

不遜・支那軍更に進出
【天津朝日特電十二日発】
 支那側は十二日、申合せを蹂躙し有力なる部隊を永定河右岸より平漢線に置き、盧溝橋の北二キロ付近に至る線に一斉進出、我が方に射撃を開始した。
 我が方はなお応戦せず沈黙を守って居る。然し今や重大事態に立至り全駐屯軍は重大なる決意を固めた。かくて両軍の全面衝突の危機は刻々と近づき北支は異常なる空気を孕み緊張の極に達した。これらの責は全く支那側の協定蹂躙にあり、我が方を憤慨せしめている。

梅津・何応欽協定
 梅津・何応欽協定とは1935年6月10日、時の北支駐屯軍司令官梅津美治郎中将と国民政府軍政部長何応欽との間に締結されたもので、協定事項は左の通りである。
(一)河北省政府干学忠、憲兵第三団長蒋孝先以下事件責任者の罷免
(二)憲兵第三団並に北平軍事委員会政治訓練所の北支撤退
(三)河北省党部の撤退
(四)干学忠麾下第五十一軍は六月二十五日までに河北省へ撤退す
(五)中央軍二ヶ師団は河北省外へ移駐す
(六)日支国交を害する秘密機関は厳重に取締り存在せしめず
(七)国民政府は近く全国に対し排外排日を禁ずる命令を出す

 この項目中の中央勢力の河北撤退部隊が再び河北入りを禁じているもので、これ等に対し保障条項があり、前記の項目と保障条項によって中央軍(南京軍)の河北省に入ることは出来ないことになっているのである。

馬村の両軍衝突事件
【天津朝日特電十四日発】
 十三日午前馬村における日支両軍の衝突事件に関し、その後支那駐屯軍司令部に達した詳報によれば、事件は全然支那側の計画的行動に基くものにして、支那側は我が一小部隊の通州豊台道路を西進中を知るや、永定門付近より二個中隊を南下せしむるとともに、馬村南方に駐屯せる支那部隊を北上せしめ、我が部隊を挟撃せんとする挙に出でたるものなり。
 かくて我が一小部隊が馬村付近に差しかかるや道路両側より機関銃の猛射撃を浴びせ、我が部隊直ちにこれに応戦、豊台より出動せる友軍と共同しこれを撃退、豊台に引揚げたるものなり。
 我が軍は目下交渉継続中のため隠忍自重しあるに拘らずかくの如く挑戦不信の行為を繰返すにおいては事態の推移測り知るべからざるものあり。事件拡大の責は一に支那側にあり、事態の成行きを重視して居る。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変
この記事へのコメント
 支那の昔からの戦略が良くわかる特電ですね。
 此処まで読んで、何度も白旗揚げて撃ってきたり、黙って約期を無視して、先手を誘ったり、国民党も共産党も、思想こそ違え、民族性は変わりませんね。
 良いとか悪いとかではなく、それが「支那」なのでしょうね。

 未だに「支那」は変わりませんね・ 
 
Posted by tono at 2007年07月10日 15:27
tono様
>>支那の昔からの戦略が良くわかる

今も全然変りませんね。政治家もこの民族の特質を知った上で対策をかんがえるべきですが、知ってか知らずか、全く迎合で付け上がらせるのを助長するだけの無能が多すぎます。
Posted by 小楠 at 2007年07月11日 08:28
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