2007年06月26日

盧溝橋特派員特電2

シナ軍の梅津、何応欽協定蹂躙

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。日本が侵略したなどとの宣伝に惑わされないようにしたいものです。
写真は事件の発端盧溝橋tokuden01.JPG

引用開始
【天津十日発同盟】
 蒋介石が中央軍に河南省境出動命令を発出したことは梅津、何応欽協定を蹂躙するものに外ならず、且つ第二十九軍に対する断乎交戦せよとの激励電の如き南京の中央政府の態度は口に不拡大を唱えその誠意皆無なるを証明するものとして我軍当局はいたく憤慨している。

盧溝橋十日発・朝日特派員 奥村正雄 
 盧溝橋第一線の状況視察のため記者は八日(七月)午後一時四十五分天津発軍用列車で河邊部隊長、高見救護班長等と共に現地に急行した。午後四時三十五分豊台に到着、直に軍用トラックで兵士達と共に第一線盧溝橋駅に出発した。
 豊台市街に通りかかるとかねて我が軍によって守られる支那住民がしばしば手を打ち振って我々を見送る。平漢線踏切を越える頃豆を煎るような銃声が物凄く耳朶を打つ。幾度か銃弾に脅かされつつ漸く第一線盧溝橋駅に到着した。

 我軍の猛撃により盧溝橋県城に後退した二十九軍はなおも城壁を利用して盛んに迫撃砲、機関銃を我が陣地に浴びせ、盧溝橋駅付近一帯は砲煙弾雨の巷と化している。記者は先ず戦況如何と盧溝橋駅構内に夕食中の北平牟田口隊長を訪問した。
 北平部隊幹部の面々が砲、銃声を他所に一升瓶に詰められたお茶を飲みながら大きな握り飯をむさぼるように頬ばっている。その間刻々戦況が報ぜられて来る。
 夕闇迫る頃あいより、我が方より猛烈なる砲撃が加えられ支那軍に多大の損害を与えた模様であるが、支那軍もかつて見ざる頑強な抵抗を行い我軍の意気を却って高らしめるものがある。

 午後八時平漢線に沿うて散開した我が歩兵部隊から敵の迫撃砲により重傷を負うた豊台部隊佐藤准尉が、小林軍医中尉以下看護兵数名に護られて盧溝橋駅に送られて来た。大腿部、足部、上膊部五ヶ所に盲貫銃創を負うているのだ。
 流れ出る血潮は純白な包帯を朱に染め小林軍医の手により応急手当が終ると「残念でした」と一言痛さを耐えてじっと眼をつぶって居るのは痛ましくも悲壮だ。折りしも戦線巡視から帰って来た河邊部隊長は、佐藤准尉の手を取って「傷は浅いぞ確りせい」と激励の言葉を与え、並み居る将兵を粛然とさせる。

 かくて激戦は数次に亘り交えられやがて夕刻迄に判明せる鹿内准尉、太田軍曹以下十名の我軍戦死者が発表された。其後盧溝橋駅付近の激戦でさきの佐藤准尉以下数名の犠牲者を出した模様である。
 七日夜半よりの不眠不休の猛撃によってさしも頑強な二十九軍も漸く沈黙するに至ったが、本隊に入った確報によれば西苑にある二十九軍の大部隊が盧溝橋県城にある友軍を掩護せんとし、八寶山に向って進軍し一方各地に分散抵抗中の二十九軍部隊もそれぞれ県城に集結され、夜に入って更に反撃の挙に出でんとする模様で、これに対し我が軍は機先を制し、城内の敵軍攻撃の決心を固め急遽部隊本部を盧溝橋駅に移動を開始した。

 記者はこれより先、重傷の佐藤准尉及び看護中の小林軍医以下兵士五名とトラックにて豊台に帰還すべく盧溝橋駅を出発、平漢線踏切を越え北平道路に車を馳らせたが、真暗闇の事とて遂に豊台への道を見失い、車は悪道路の窪みに落込み立往生のやむなきに至った。
 一同は唯重傷の佐藤准尉を一刻も早く豊台に後送しようと汗みどろに塗れながら車の引上げに苦心したが、重傷の佐藤准尉は痛む身体をこらえて起上り、北平道路迄引返せば自分が豊台への道をよく知っているからと、悲痛な声で語るのであるが引返す術もない。
 記者は看護兵一名と付近の小部落から戦に怯えている農民をなだめすかして、三十余名を狩り立てやっとトラックの引揚げを行い、午後十一時漸く豊台に到着し豊台部隊内の野戦病院に昏々と眠る佐藤准尉を収容手術を行った。その後結果は良好で吾々の労苦が酬いられた。

 九日午前四時河邊部隊長は幕僚等と共に豊台から盧溝橋駅第一線に作戦本部を移動したため、記者も再度第一線に向うべく午前四時将兵輸送トラックに同乗豊台を出発した。
 その頃戦線一帯は篠衝く豪雨となり、戦闘は益々猛烈を極め、支那軍には夥しい戦死者を出した模様であるが、この日の二十九軍は満洲事変当時の支那軍とは格段の相違あり、その頑強なる戦闘振りは敵ながら天晴れと、わが軍首脳をしていわしめた程で、膝を没する泥濘中で濡れ鼠となった将兵の悪戦苦闘は想像に余りある。

 午前五時協定に基き支那軍は一斉に撤退を開始するものと、一同は厳重に監視中、俄然支那側は城壁上に躍り出て、わが軍に対して猛烈に射撃を浴せかけた。この不法行為に対し全軍一斉に憤然色をなし、遂に全線に総攻撃令が発せられ、我が陣地からは一斉に砲撃の火蓋が切って落され、暁天を衝いて轟く砲撃殷々として天地を揺がさんばかり、約八百メートル前方の宛平県城内は釣瓶打ちの砲弾に見舞われて、半ば崩れ城壁の至るところ白煙濛々と立ち籠め命中率は百パーセントである。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:39| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変
この記事へのコメント
>命中率は百パーセントである。
・それ行け朝日!の記述はともかくとしても、生々しい事実が連ねられていますね。
 戦が激化するのは、かような状況からというドキュメントですね。
Posted by tono at 2007年07月10日 15:01
tono様
ほぼリアルタイムで送られてくる特電なら信用できるでしょう。
中国や朝日のように嘘や隠蔽をしていると、筋書きは必ず破綻しますね。
ただ、恥知らずたちは、それでも平気なのでしょうけど。
Posted by 小楠 at 2007年07月11日 08:24
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