追記:今朝書き忘れましたが、日の丸の簡素で美しい旗は、明治の文明開花期に各国大使の目を引き、なかでもフランスの大使は、すっかりほれこみ、正式に政府の代表を立てて「日の丸を500万円でわが国に売って欲しい」と頼みこんできました。新政府は財政難の時だっただけに、ノドから手が出るほどこの金がほしかったのですが、「国旗を売ることは、国家を売ることだ」と、きっぱりこの申し出を断ったということです。
「日本のこころの教育」という本があります。著者の境野勝悟氏が高校生を前に講演された内容を記したものです。
その中から、日の丸と国土についての部分を引用してみます。大変解りやすい内容なので、是非子供たちへの説明に応用されたらいかがでしょうか。

引用開始
国旗というのはわたしたちが住んでいる国土のマークです。日本の大地・自然のマークです。そのことをよく頭に置いて下さい。この日本の大地・自然のマークに、わたしたちの民族は太陽のマークを使ったのですね。実はわたしたちの国旗の日の丸は、太陽の丸です。日の丸は、国旗である前に、実はわたしたちみんなの命の原因のマークだったのです。「日」とは太陽のことです。
では、日本の国旗は、いつ、だれに要請されてつくらなければならなくなったのでしょうか。そしてまた、国旗は初めから「日の丸」だったのでしょうか。
アメリカのペリー一行が三浦半島の浦賀沖に現れたのは、嘉永六(1853)年六月三日のことでした。このとき、停泊していたアメリカの大型の蒸気軍艦四隻には、アメリカ合衆国の国旗・星条旗が堂々と舞っていたのです。当時の日本人は、あの星条旗が何であるか、まったくわかりませんでした。
そのアメリカのペリー艦長が、鎖国をやめて通商・交易の開国をするよう、幕府に強く求めてきました。幕府は困惑しましたが、とりあえずその交渉を来春まで延ばしてほしいと切望してやっとのことで退去してもらいました。そのときペリーは、幕府の役人たちに、つぎのことを忠告しました。
「アメリカの黒船のまわりに、たくさんの小さい日本の船がやってくるが、旗をつけていない。日本には、ナショナル・フラッグ(国旗)というものがないのか。ナショナル・フラッグをつけていない船は、どこの国の船ともわからないから、大砲を撃ち込んで沈めてしまってもいいことになっている。来年来るときまでに日本の船には日本の国旗をつけて走るように・・・。もしナショナル・フラッグをつけていない船が近づいて来たら沈めます」
薩摩藩主、島津斉彬は日本の旗をつくるように、幕府に願い出ました。そして、日本の将来は古代から日本人がいのちの恩として愛してきたかがやく太陽のようでなければならぬ。と考え、「日の丸」を日本全体の総船印とすることを幕府に提案しました。
ところが幕府では、大半の重役が「日の丸」に反対でした。彼らは中黒(白地の中央に黒の横一文字)にするほうがよいと強硬に論じました。
この両論に対して、水戸の徳川斉昭は、最終意見を求められ、日本の総旗印は日の丸にすると断固決定したのです。
1854(安政元)年七月九日、江戸老中の阿部正弘から大小の目付へ「達」が渡され、七月十一日付で「日の丸」をナショナル・フラッグにするとの決定が天下に布告されることになったのです。
「日本総旗印は、白地に日の丸幟相用い候う様」(日本全体の旗印は、白地に日の丸の旗を使用する)という布告でした。
このようにして、白地に太陽の「日の丸」の旗が日本の旗印となり、ナショナル・フラッグとして船の上に美しくはためき出しました。
勝海舟たちは、サンフランシスコの港に入る前、国際的な礼儀にしたがって、咸臨丸に大きいアメリカの国旗を掲げて、ポーン、ポーンと礼砲を響かせます。すると、港に停泊していたたくさんのアメリカ船のマストに、するすると日の丸が掲げられ、歓迎の祝砲が放たれたのです。三十日をかけ、わが国の船を初めてアメリカに渡航させた日本人たちは、咸臨丸の甲板に整列して、サンフランシスコの港に翻るたくさんの日の丸を眺め、胸を締め付けられ涙を流しました。
日の丸は実は江戸時代末期から世界に翻って、たくさんの国との親和や和睦のために、平和の使徒として大活躍していたということも決しておろそかに思ってはなりません。
国 土
大地・自然。つまり国土というものは、うっかりすると、わたくしたちが生きている生命となんの関係もない、といふうに思ってしまいます。一見なんの役にも立っていないようですが、日本の国土というものが、実は、わたくしたち日本人の生活を保証しています。
当り前といえば、まことに当り前の話ですが、私たちは日本の国土、日本の大地でないところは、歩くことさえできないのです。例えば、アメリカの大地、国土を歩くには、パスポート(旅券)やビザ(入国許可証)が必要です。
外国の人が、日本へ来るときも、入国の許可証が必要です。許可がなければ、不法侵入者として逮捕されてしまうのです。自分が行きたい相手の国の許可をいただいて、その国の大地・自然の中で数日とか数週間、生活させてもらうという意識はぜひとも必要なわけです。
海外に旅行したときに、まず、念頭に置いてほしいことは、世界各国の人が、共通して大切にしているものは、まずはそれぞれの国の「国旗」というものだということです。
なぜ、世界各国の人が、そんなにも、国旗を大事に思っているのでしょうか。その一つには、国旗とは、国のシンボルでもあると同時に、領土権を表すものだからなのです。国旗が立っているところは、自分たちの大地であり、自分たちが永住していい自然であるという権利を示しているからなのです。
これはちょうど、みなさんのお宅の玄関にかかっている表札とほとんど同じと考えるとわかり易いですね。森田さんの家なら、表札には「森田」と書いてある。だから森田さんはそこでなんの許可もなく生活できるんです。 この表札がなくなって、ある日突然、なにかの事情で「山口」という名前の表札になってしまったら、森田さんはこの家に入ることができません。山口さんにお願いをして許可を得なくてはなりません。これから考えても、国旗というものは、掲げるとか掲げないとかの問題ではなく、それは理屈抜きで掲げないと、わたしたち日本人はここに住むことはできないということもわかってきます。
国際人などと言っても、そういう常識がわからなければ、国際人になれません。
引用終り
この講演の後、著者には受講した多くの高校生から感想文が寄せられました。
この本の末尾には、その何点かが収録されていますが、物事を正しく教えられた若者は、真実を知って、素直に感動した内容の感想を記していました。
ところで「河野談話・・・」、実名で署名に参加してきました。「よーめんのブログ」の賛同ブロガーの4番目でお見かけして急ぎ仲間入りです(^^ゞ
>>賛同ブロガーの4番目で
あっ、そうでしたか、本人がそれを知らなかったので、再度見に行ってきました。
なかなか沢山のブログが参加されていて心強いですね。
白紙撤回の上、辞職で政界から去って欲しいですよ。
milesta 様
赤は血の色、白は骨の色などと幼稚なこじつけを恥ずかしくもなく教える日教組とは、どういう生き物ですかね。
児童をばかにした態度としか言えません。
私が小5の時、午前の授業を全部自習にした担任が、講堂裏で4〜5人と共にぐるぐる回って(デモですね)いるのを昼の掃除時間に見つけて「なんだよ」と腹を立てたことを、本ブログを読んでふぃと思い出しました。
>>真の日本人の心が若者に受け継がれて行く事を嬉しく思う一人です。
自分たちの主義のために生徒を犠牲にする日教組とは雲泥の差がありますね。
この講演会を開いた高校にも敬意を表したいです。
大介様
>>講堂裏で4〜5人と共にぐるぐる回って
結局小学生からも馬鹿にされるようなことを、一応は教育者と言われる者がやっている。
ただ、子供の頃でもそのように判断できるのは、やはり家庭教育がしっかりしていたのでしょう。
現在では人格教育を学校に求めるのは不可能かも知れません、境野氏のような方が先生なら別ですが。
勝海舟の故事のところで書かれているように国を離れれば祖国の有り難さ、祖国の歌声、祖国の同胞に出逢うことの嬉しさをひしひしと感じるのが人情で、とても日の丸は要らない君が代は唄わないなんて言ってられないと思います。海の孤島の島国に棲んでいると他国との行き来も薄くなるから自然に祖国とはどういうものなのか、どのようにして他所の人に解って貰うのかという努力が芽生えないんですね。一度でも他の国を見てきた賢い親なら自分の子供には祖国(国旗)とはどういうものか、国歌(君が代)によってどのくらい励まされたかを伝えることが可能だと思います。“日狂組組員”に負けずに頑張って貰いたいです、日本の賢い親御さんは。
>>日教組組員に騙された可哀相な子
本当に彼らは「組員」という言葉が似合いますね。思想暴力団そのものです。
大切な判断基準に嘘を教える罪は重大犯罪です。人の一生を台無しにするのですから。
そこの娘がまた、一つ正しい知識を得ます。
ありがとうございます。