2007年06月20日

ケンペルと元禄の日本5

二度目の江戸参府
 1690年(元禄三年)7月4日に日本にやってきたケンペルの「江戸参府旅行日記」の中から、1692年3月2日に長崎を出発して、二度目の江戸参府を行った時の将軍との謁見の模様を、少し引用掲載してみます。これは300年以上前の日本の姿です。
画像は本文と関係ありませんが道中での清水寺
kiyomizu.jpg

引用開始
4月21日
・・・われわれはぬれた靴下や靴をとりかえて、[本丸]御殿に入った。カピタン一人が将軍の座所の前に進み出て、献上品を捧呈したのは12時で、それが終るとすぐにわれわれのいる控えの間に戻ってきた。(長崎奉行の)十兵衛様は、それからわれわれも一緒に拝謁するように言い、献上品が並べてあった左手の広間の所を回って、・・・・
拝謁が行われる広間のすぐ近くにある長い次の間に入った。・・・

 われわれが坐りきりで長時間待っていて疲れるといけないので、他の廊下にさがらせ、そこで気楽に時を過ごすことができるようにしてくれ、終いには近くにある庭が見えるように戸をあけてくれた。
 そこで休んでいる間に、身分の高いたくさんの若い人々が現れ、われわれを見て挨拶したが、大へん親しみがこもっていた。宗門改めの奉行はわれわれに、金の輪を見せてくれたが、それには日本の十二の干支のついた磁石がはめこんであったし、またヨーロッパの紋章やその他いろいろな物を見せた。われわれがもとめられて、これらの品について説明しようとしたちょうどその時に、将軍に呼ばれた。・・・・

 左には六人の老中・若年寄が、右の廊下には側衆が座に着き、その右手の御簾の向うに将軍が二人の婦人と一緒におられた。その前の所に実力者の側用人備後様が座を占めていた。彼は将軍の名において、よくぞ来られたと挨拶し、それから、正座しなさい、外套を脱ぎなさい、と言い、われわれの氏名や年齢を言わせ、立ちなさい、そこらを歩いてみなさい、向きを変えなさい、舞ってみなさい、などと命令し、特に私には歌え、と言った。
 われわれは互いにお辞儀をしたり、叱り合ったり、怒ったり、客に何かを勧めたり、いろいろの会話をやらされた。それからわれわれ二人を親友とか、親子とかいうことにし、互いに別れを惜しんだり、訪ねて来たり、互いに出会う二人の友人のしぐさをしたりした。また、一人の男が妻と別れる場面を演じたり、子供を甘やかしたり、腕に抱いたりする真似をした。

 その他われわれに向っていろいろな質問が行われた。すなわち私に対しては、其方はどんな職業についているのか、また特に、其方はこれまでに重病を治したことがあるか、と聞かれた。これに対して私は、捕虜と同じような状態にある長崎では、治したことはありませんが、日本以外の所ではあります、と答えた。さらに、われわれの家のことを、また習慣は違っているのか、と尋ねられた。私は、はいと答えた。其方どもの所では葬儀はどのように致すのか。答え。遺体を墓場へ運んでいく日で、それ以外の日には葬儀は行いません。

 其方どもの皇子[国王のつもりか]の地位はいかなるものか。バタビアにいる総督は皇子より身分が低く、その下に立っているのか、それとも彼ひとりで国を治めているのか、と聞かれた。
 其方どもは、ポルトガル人が持っていたような聖像を持ってはいないのか。答え、持っておりません。オランダや他のヨーロッパの国々にも、雷が鳴ったり、地震で揺れたりするのか。落雷が家を焼き、人々を殺すことがあるのか。われわれはものを読むように答えなければならなかった。それから私はたくさんの膏薬の名前を挙げねばならなかった。

 またもう一度その後で一緒にダンスをした。それからカピタンは子供のことやその名前を聞かれ、またオランダは長崎からどれくらい離れているか、など尋ねられた。将軍はその時左手の襖を開け、新鮮な空気が入るようにさせた。
 さて、われわれは帽子を脱ぎ、鬘(かつら)をとったり、また言葉を交わしながら、15分ばかりあちこち歩き回らねばならなかった。私が美しい将軍の御台所の方を何回も見た時に、将軍は日本語で、其方どもは御台の方をじっと見ておるが、その座所を承知しているに相違あるまい、と言われ、それからすぐに、われわれの向いに集まっていた他の婦人たちの方へ席を移された。
 それで私は御簾の所からもう少し近くに行かされ、鬘をもう一度とり、飛んだり跳ねたり、一緒にダンスしたり、歩き回ったりした。

 またカピタンと私に、備後の年は幾つか当ててみよ、と言われ、カピタンは50歳、私は45歳とお答えしたら、みながどっと笑った[備後守は実際には57歳であった]。さらに、われわれは夫が妻に対してどういう風にするのかを、わかりやすくやってみせねばならなかったが、その際不意に接吻してみせたので、婦人たちの所で少なからず笑いが起こった。
 それから、われわれはまたしても飛び回ったり、最後には身分の低い人が高い人に対する、また王に対するヨーロッパ人の敬意の表し方をやって見せねばならなかった。私は歌をうたうことを求められ、いろいろの歌のうちから二つを歌い終ると、みなからそれ相応の喝采を受けた。

 それからわれわれは外套を脱ぎ、次々と将軍に近づいて、ヨーロッパの王の前でするように、てきぱきと別れの挨拶をした。そうすると、みなの顔に楽しげな満足な様子が浮かんだので、われわれはそれを見届けてから、退出の許可を得た。すでに四時であった。われわれは三時間半もここにいたわけである。われわれは宗門改めと十兵衛に暇を告げ、さっき入った時と同じように、二人に案内されて御殿を出ると、備後守の邸に赴き、そこで大層結構なもてなしを受けた。やっとわれわれが宿にもどったのは、日の沈むころであった。
引用終り
posted by 小楠 at 08:34| Comment(4) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
この記事へのコメント
またまた笑ってしまいました。
鎖国していた日本では情報が少なく、外国のことを知ろうと必死だったのでしょうが、それに応じたカピタンさん達は良い人たちですね。
外国人にこんなことを要求していたとは、こちらの一連の記事で初めて知りました。
Posted by milesta at 2007年06月20日 14:37
milesta 様
>>カピタンさん達は良い人たちですね。

本当に、屈辱的な感じを与えないように依頼したのかも知れませんが、貿易を守るためという背景もあったのでしょう。


Posted by 小楠 at 2007年06月20日 17:54
>世界中のいかなる国民でも、礼儀という点で日本人にまさるものはない。のみならず彼らの行状は、身分の低い百姓から最も身分の高い大名に至るまで大へん礼儀正しいので、われわれは国全体を礼儀作法を教える高等学校と呼んでもよかろう。
・社交辞令を割り引いても、やはり日本人の礼儀は世界一だと言うことですね。
>二時間にわたり、こういうようにして見物されたのである
・以後度々見せ物にされていますが、笑ってはいけませんが場面を想像すると楽しくなります。
 日本人からの矢継ぎ早の質問は、好奇心の固まりであることを示すと共に、昔から良い物は良いという、水平な価値観を持ち合わせて居たのでしょうね。
 ありがとうございました。
Posted by tono at 2007年06月23日 22:32
tono様
>>場面を想像すると楽しくなります。

結構楽しめる本でしたよ。やってるケンペルたちは泣きたくなったかも知れませんが、馬鹿にされていることではないと判っていたからできたのでしょうね。
Posted by 小楠 at 2007年06月24日 11:35
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/4428812
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック