2007年06月18日

ケンペルと元禄の日本3

将軍[綱吉]に謁見

1690年(元禄三年)7月4日に日本にやってきたケンペルの「江戸参府旅行日記」の中から、1691年2月13日に長崎を出発して、江戸参府を行った当時の日本人との交際にあたる部分を、少し引用掲載してみます。これは300年以上前の日本の姿です。
オランダ使節謁見の広間
hiroma.jpg

引用開始
3月29日木曜日
 われわれは呼ばれて、二つの立派な門で閉ざされた枡形を通り、それから一方の門を出た所から幾つかの石段をあがって本丸に案内された。そこから御殿の正面までは、ほんの数歩の距離で、そこに武装した兵士が警備し、役人や近習などがたくさんいた。
 われわれはなお二段ほど登って御殿に入り、玄関の右手の一番近い部屋に入った。この部屋は、謁見のため将軍や老中などの前に呼び出される者の普通の控えの間で、金張りの柱や壁や襖でみごとに飾り立てられ、また襖を閉めた時には、それに続く右手の家具部屋の、かなり高い所にある欄間を通してほんのわずかな光がさすだけで、大変暗かった。
 われわれがここでたっぷり一時間ばかり坐っていると、その間に将軍はいつもの座所に着いた。二人の宗門改めと攝津守とが、わが公使つまりカピタンを迎えにやって来た。それから彼を謁見の間に案内して行ったが、われわれはそこに残っていた。彼が謁見の間に入って行ったと思われた時に、間髪を入れず、オランダ・カピタンという大へん大きな声がした。それは彼が近づいて敬意を表わす合図で、それに応じて彼は、献上品がきちんと並べてある場所と、将軍の高い座所との間で、命じられた通りひざまずき、頭を畳にすりつけ手足で這うように進み出て、一言もいわずに全くザリガニと同じように再び引き下がった。いろいろと面倒な手数をかけて準備した拝謁の一切の儀式は、こういうあっけないものであった。

 毎年大名たちが行う謁見も同じような経過で、名前を呼ばれ、恭しく敬意を表し、また後ずさりして引下がるのである。謁見の広間は、モンタヌスが想像し紹介していたのとは、ずっと違っていた。ここには高くなった玉座も、そこへ登ってゆく階段も、たれ下がっているゴブランの壁掛けもなく、玉座と広間すなわちその建物に用いてあるという立派な円柱も見当たらない。けれども、すべてが実際に美しく、大へん貴重なものであることは事実である。・・・・

 100枚の畳が敷いてある謁見の間は、一方の側が小さな中庭に向って開いていて、そこから光が入る。反対側には同じ中庭に面して二つの部屋が続いていて、最初の部屋はかなり広く、幕府の高官の座所で、比較的小さい大名や公使や使節に謁見する所である。しかし、最後のもう一つの部屋は、大広間よりは狭く、奥深く一段高くなっている。そこはちょうど部屋のすみで、数枚の畳が敷いてある高くなった所に将軍が、体の下に両足を組んで坐っていたが、その姿がよく見られないのは、十分な光がそこまで届かなかったし、また謁見があまりに速く行われ、われわれは頭を下げたまま伺候し、自分の頭をあげて将軍を見ることが許されぬまま、再び引下がらなければならないからである。

 広間のはずれや廊下に整然と坐って、老中・若年寄・側衆その他の高官たちが静かに居並ぶ様は、この拝謁に少なからず重みを添えている。
 昔は拝謁の時、カピタン一人が出頭し、それから二、三日後に彼は面前で法規が読まれるのを拝聴し、オランダ国民の名においてそれを守ることを約束すれば十分で、老中から再び長崎に帰ることが許されたのである。しかし現在、つまりこの20年来は、使節と一緒にやって来たオランダ人たちを、最初の拝謁の後で再び御殿のずっと奥に招じ入れ、娯楽や見物の目的で、将軍の夫人や、そのために招かれている一族の姫や、そのほか大奥の女たちの前に、連れ出すのである。その時、将軍は女たちと一緒に簾の後ろに隠れていたが、老中や拝謁に陪席を命じられた他の高官は、見える所に坐っていた。・・・・

 われわれが見物されることになっている部屋に重臣が到着するまで、半時間ほどここで待たされてから、幾つかの薄暗い廊下を通って連れて行かれた。・・・・われわれの所からそんなに離れていない右側の御簾の後ろには、将軍が夫人と共に坐っていた。
 私が将軍の命令で少しばかり踊っていた間に、御簾が動いて小さなすき間から、私はその夫人の顔を二、三回見たのであるが、ヨーロッパ人のような黒い瞳をした、若々しい褐色がかった円みのある美しい顔立ちであった。・・・

 われわれの前方、畳で四枚ばかり離れた、同じように御簾の後ろには、将軍一族の姫たちや、その他大奥の女性たちが招かれて集まっていた。この御簾の合せ目やすき間には紙を挿し込んであり、楽々とのぞけるように、彼女たちは時々そこを開いた。・・・
 将軍はわれわれに外套、つまり礼装を脱がせ、われわれの顔をよく見ることができるように、上体を起して坐ることを命じた。しかし将軍が要求したことはこれだけではなくて、本当の猿芝居をすることに、われわれは同意せざるを得なかったが、私にはもうすべてのことを思い出すことさえできない。

 われわれはある時は立ち上がってあちこちと歩かねばならなかったし、ある時は互いに挨拶し、それから踊ったり、跳ねたり、酔払いの真似をしたり、つかえつかえ日本語を話したり、絵を描き、オランダ語やドイツ語を読んだり、歌をうたったり、外套を着たり脱いだり等々で、私はその時ドイツの恋の歌をうたった。しかし、わが長官の威信が傷付けられてはならないと、高官たちが気付いたので、カピタンは跳ねたりしないで済んだ。しかも彼は真面目で敏感な性格でもあったから、そういうことをやったところで、全くうまくは行かなかったであろう。もちろん先方には少しの悪意もないのだが、絶えず不当な要求に応じながら、二時間にわたり、こういうようにして見物されたのである。それが終ると、坊主たちがわれわれ一人一人の前に日本食の小さな膳を運んできたが、その膳にはナイフとフォークの代わりに、一対の短い棒[箸]が添えてあった。
引用終り
posted by 小楠 at 07:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
この記事へのコメント
オランダ人が「見物される」様子、悪いけれど笑ってしまいました。
こんなことをさせられても「先方には少しの悪意もない」と書かれているのは、それまでに日本人は礼儀正しく野蛮でない、ただちょっと好奇心旺盛な民族であることをわかってもらえていたのでしょうね。
Posted by milesta at 2007年06月18日 14:41
milesta 様
これ、当時のオランダ人が何だか可哀そうになってしまいますね。
ケンペルの方も、解った上で、文化の違いを示そうとしたのでしょうけど、この後、色んなところで、ダンスさせられたり歌を歌わされたりしますが、次回にもまたその模様が出てきます。
Posted by 小楠 at 2007年06月18日 16:34
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