2007年06月13日

幕末明治の英紙報道10

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
日清戦争

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は、日本の軍艦「吉野艦」
yoshino.jpg

引用開始
1894年7月21日号
 アジアの極東では、ときおり、仲介的な地理的位置を占める一国が無政府状態に陥って、自分で防衛できなくなったような場合に、ヨーロッパの場合と同様、敵視しあう諸帝国のもつ猜疑心のために、混乱が起る。
 中国と日本とは、朝鮮をいかにあつかうべきか、自他いずれの国もこの国を放任しておくべきかという問題をめぐって、まったく意見を異にしているが、さらに北方には第三国、すなわちロシアがいて、どんな政策をとるつもりか、その意図はまったくわからない。・・・・

1894年9月1日号
 日本における最近の政府の発表によれば、朝鮮国王は6月30日中国からの独立を宣言し、ついで日本軍に中国の分遣隊をアサン[牙山]から駆逐するのを援助してほしい、と呼びかけたとのことである。
 中国側の報告によれば、最近日本軍が京城北西の平壌付近で中国軍に敗れたという。
 8月18日、日本の軍用輸送船団は、軍艦の護衛のもとに、大同江河口の平壌の入江に到着したらしい。
・・・軍は大同江流域を通って平壌に向け出発したが、突然1000騎の中国軍騎兵隊の攻撃を受け、縦隊を2つに分断された。高地に程よく配置されていた中国軍砲兵隊は、日本軍に対し砲火を開き、日本軍は完全な混乱に陥り、自国の軍艦の砲火の保護圏内の海岸へ逃亡した。日本人ガ平壌南方中和へ後退した事実については、上記の報告では言及されていないが、中和は中国軍によって占領されているらしい。・・・


大連湾の占拠

1895年1月5日号
 この事件はこのような偉業にふさわしい1894年11月5日に起った。大連湾は3000人の歩兵と180人の騎兵に護られていたが、中国軍の行動はまことに臆病で、ポート・アーサー[旅順]に向けて羊のように逃走した。
 日本軍は陸地側から大連湾を攻撃したが、死傷者はわずかに10人であった。それ故、大山[巌]元帥[当時は大将]は完全なしかも容易な勝利を博したが、防衛工事が大規模にできていただけに、この勝利には元帥自身も驚いていた。彼の陸軍の第1師団は金州を攻略し、大連湾は第2師団の手中に落ちたのである。

威海衛攻撃

1895年4月6日号
 日本軍は、全艦隊の護送と保護のもとに50隻以上の輸送船で、1月中旬ロッキー湾[栄城湾]に3万の兵力をもつ第3軍を上陸させ、大山元帥の指揮下に(50マイル先の)威海衛へと進撃した。
 1週間経過してのち、艦隊は夜間抜錨して、早朝になると東側の堡塁群と交戦しながら町のほうへ近づいた。日本軍は急速に占領したが、占領したときは中国軍隊は全員逃亡していた。水兵たちが特に大砲を操縦するため上陸させられ、たちまちこれらの大砲を前面の敵と敵艦隊のほうへ向けたため、日本軍は山脈を通って、この強力に要塞化された場所に通ずる主要道路のほうへ自由にまわって、これを占拠することができた。
 旧式の艦船と砲艦は東の入口を横切って汽走し、島々の堡塁と中国艦隊に向って砲撃を加えたが、中国艦隊はこれに応戦して目標や距離を固定したまま砲火を放ったらしい。

・・・2月5、6両日の夜には水雷艇が来遠・威遠・定遠の三大艦船、および小型の文書送達船1隻を沈没させるのに成功した。
 2月7日の午前には全艦隊が両入口砲撃し、2時間にわたってかなりの激戦が展開された。・・・・
 両側にいた艦隊は、伊東提督の指揮下に、まったく明らかに手出しをせずにいた。海軟風はこの煙を陸においやった。中国人砲手たちが自分たちの射程距離のかなり適切なことを知っていたことは明らかであるが、それは、艦船中には、危機一髪というのも何隻かあったからである。
 
 しだいに砲撃は緩慢になり、艦隊も撤退したが、中国艦船はなおすでに日本軍の手中にある堡塁を砲撃しつづけた。このおそろしい攻撃のあと、中国の水雷艇隊は逃亡を図った。7隻は捕獲されてThree―Peaked Point[百尺崖東端か]の内側[陰山口]の日本軍の集合地に連行された。2隻は船足の早い巡洋艦に追われて芝罘まで逃げたが、ここで岸にのりあげ、その乗組員はいずこともなく逃亡した。日本艦隊にも若干の損害が生じた。すなわち、旗艦が煙突をへこまされたほか、浪速艦は後部甲板を爆破されて相当の損害を受け、他の1隻は一撃の砲弾が貫通して数人の水兵を殺害し、死者は岸辺で火葬に付されたのである。
引用終り
posted by 小楠 at 07:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
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