2007年06月12日

幕末明治の英紙報道9

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
横浜から見た西南戦争

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は、薩摩の戦場に出かける江戸の警官
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引用開始
1877年4月14日号
 日本は火山国であるため、しばしばこの地に爆発が起ることは、極めて自然のことである。実際、昨年10月ヒオゴ[肥後]の国の熊本の守備隊が真夜中に襲撃を受け、多数の将兵が“古い日本”の狂信家たちによって虐殺されて以来、農民の暴動や反乱がこの国のほとんど至るところで起っている。
 しかしこうした行動も、帝国政府によって、個々に鎮圧されてきた。これらの暴動のあいだ強力な薩摩藩は完全に静謐を保ち、ひところは全日本を内乱にまきこむ恐れのあったチョーシン[長州萩]における前原[一誠]の反乱のあいだすら、そうであった。

 農民を鎮めるために減税が行われ、日本国中すべてが静謐に帰するかと思われた。それでも、ときおりは薩摩がかなり動揺しているとの噂が江戸に達した。ひところは、西郷[隆盛]が、不愉快に思っている大臣たちの解任を求める建白書を提出するため、17個大隊の兵の先頭に立って首都に向かって進軍中である、との報せもあった。しかし、これらの噂は否定され、ミカドが今月五日に鉄道開業式に臨むため京都へ赴いたころは、すべてが円滑に運んでいるかのように思われた。しかしこの式典すらも、とても満足には行われなかった。というのは、1隻の政府の汽船が鹿児島(薩摩の首府)から火薬を持ち去ろうとしたところ、その国から火薬を持ち去らせるのを拒んだ武装したサムライ[士族]たちによって追い払われた、とのニュースがこの地に伝わったからである。これが、実に紛争の発端であった。

 薩摩にいた男子生徒やサムライや軍隊は、武器をとって隣国ヒオゴ[肥後]に侵入したのである。ミカドとその顧問官たちは、かねてから和解策をとることを願っていたが、しかし、反乱者たちがこのような振舞をしている旨の電報を受け取ると、彼らは、やむを得ず、戦争を布告した。そこでミカドはアリスガワ・ノ・ミヤ[有栖川宮熾仁親王]を総司令官に任命して、できるだけ速やかに反乱を鎮圧するための全権を与えた。

 それ以来、政府は現地民の新聞によるいかなるニュースの刊行をも禁止した。しかし、戦われていた戦闘の噂はしきりに横浜に届いた。薩摩の人々は、1868[明治元]年の革命以来、日本の甘やかされた子供たちであった。しかし彼らは明らかにimperium in imperio(帝国内の帝国)を保つことを望んでいるのだが、それは、黙許さるべからざる事柄である。帝国政府は今、彼らに対抗して大きな陸軍軍隊を送りこみつつある。何千という軍隊がすでに(日本の)三菱会社所属の郵便船で送られたが、これらの郵便船はしばらく以前に(アメリカの)パシフィック・メイル汽船会社から購入されたものである。これらの軍隊は堂々たるものに見える。彼らは短いスナイダー銃[アメリカ製の後装銃]で武装し、服装も立派だが栄養も充分である。兵士はおのおの予備の靴と、赤、青、緑または紫の毛布1枚を背嚢に結びつけている。この2週間の間というものは、横浜は彼等がいたため活気づいている。彼らは江戸から列車でやってきて、当地で汽船に乗りこんでいる。昨日は200人の兵士と300人の警官が南へ向かった。警官たちは、顔つきの立派な連中で、六尺棒で武装しているだけだが、これは、目的地についたときライフル銃や連発拳銃と取り替えることとなろう。

 西郷将軍がこの反乱になんらかの形で加わっていることを、日本の公式文書は否定している。しかしこの文書が書かれている言葉遣いや、反乱が進行している地方に西郷将軍が下野している事実にてらして、こうした否定をすること自体が、どちらかというと、彼がこの反乱を促進しつつあるとの報道を確認するのに役立つのだ。
 先月21日付のサンフランシスコからの電報がはいっているが、それによると、鹿児島は、激烈な戦闘の後に帝国軍隊によって攻略されたとのことである。この地は、今からほぼ14年以前に英国財産に加えられた危害に対して薩摩の領主を懲罰するため、一英国艦隊ないし軍艦によって砲撃されたことが思い起される。

1877年4月21日号
 日本公使館で受け取った火曜日[4月17日]付の日本からの至急報によれば、反乱軍は敗北して、ヒオンガ[日向]方面へ逃走したとのことである。日本の司令部は熊本に移され、暴動はほとんど集結したと見られる。

1877年7月7日号
 官辺筋から得た電報によれば、反乱軍は追い散らされて、その一部は豊後の国へ追い込まれた。同じ電報によれば、平和はほとんど回復されているとのことである。
引用終り
posted by 小楠 at 07:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
この記事へのコメント
幕末明治の英紙報道シリーズ、面白く読ませて貰っています。今日の <<日本は火山国であるため、しばしばこの地に爆発が起ることは、極めて自然のことである>> と言う表現、火山国ということが既に海外でも知られていたんですね。そして海外で報道された日本、当時の姿が新鮮に見えてきます。
Posted by カピタン at 2007年06月12日 09:55
カピタン様
面白いですね、火山と反乱を関連づけて見るというのは。
これだと、中国にはそこら中、火山だらけでしょうか。
Posted by 小楠 at 2007年06月12日 14:39
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