2007年06月09日

幕末明治の英紙報道7

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
日本に起った変化(本紙特派通信員より)

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は、新旧両様、日本における服装の変化。
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引用開始
1873年11月8日号
 いかなる国の歴史においても、日本に起った最近の革命に匹敵する変革を見出すのは困難であろう。最も急激な変革が行われ、驚くべき変容ぶりが今なお続いているのである。
 政府の明瞭な代表者であったタイクンは完全に排除され、ダイミョウたちの古い封建制度も一掃されてしまった。この国の軍事力を形成していたダイミョウ家臣団の代りに、今ではフランス式に訓練され、ミカドもしくはその政府に直属する陸軍がある。
・・・・電信線が全国に拡張され、まだ1本だけだが、鉄道もすでに江戸横浜間に運転されており、もう1本の線は神戸大阪間でほぼ完成に近く、やがてはこれらも日本全土に拡張されることとなろう。

 ヨーロッパの暦が採用され[明治5年12月3日が1873年1月1日なので、明治6年1月1日とした]、イギリス製の時計が鉄道の停車場にはどこにもかかっており、・・・・
 いかなる東洋の国も――そして、いかなる西洋の国も、と付け加えてもよかろうが――日本人が自国の主要な島をそう呼んでいるニフォンに、今起りつつあるような急激で完全な組織上の変化をとげたことはない。ミカドは今や政府の真の首長であり、しかも宗教的な神聖さのもとに包まれて見えないところにいる代わりに、彼は国民の前に現われ、政務を実際にとり行っているのである。みずから最初の鉄道の開業式に臨み、横浜商業会議所からの祝辞をたずさえた代表団に拝謁を賜った。・・・・

 これらすべてのことは奇妙にも北京で起った事態と対照的であり、そのことは、・・・皇帝と西洋列強代表たちとの外交関係、およびひきつづき中国のどの地方へも電信と鉄道を導入することに反対している、という詳しい報せのなかで明らかにされる。
 どの港にせよ、日本の港を訪れる人の眼にとまる最初のことは、つい最近起って今もつづいている衣服の変化である。今までのところ、婦人たちは自分の昔からの絵画的な衣裳になんら変更を加えていないし、すべての人々がこの変化をなしとげるにはなお時間が経たなくてはなるまい。しかし、部分的にせよ全面的にせよ、変化をなしとげた人々の数も相当である。

 大多数の人々はなお今までのところようやくにしてヨーロッパの服装のうち1、2の品々を採用したにすぎず、彼らは人目をひく、しかもときどきは笑い物になるような身なりをしている。フェルト製の広ぶち中折帽の需要が大きいが、この品の舶載はそんなに速くはできない。日本人はそれをかぶると、自分こそ新しい事態のなかではるかに進歩していると感じているかのようである。当地では頭に何かをかぶるという習慣はなかった。頭のてっぺんは剃られ、後頭部の髪の毛は小さな弁髪の形に結ばれ、なんらかの方法で糊づけしてとめてあるため、弁髪は頭のてっぺんで前方へ突き出ているのであった。

 最初のさまざまの変化のうちのひとつは、髪を伸ばし、ヨーロッパ人のやり方に従ってこれを櫛ですき、ブラシをかけることであった。この点に達すると、日本人はいつでも帽子をかぶる準備ができるのである。広ぶち中折帽とグレンガリ型のふちなし帽とが優位を占めるスタイルである。インヴァネス・ケープ[スコットランド人のケープつき外套]がとてもお気に入りであるが、その理由は、袖がゆったりとして、広く、どこか彼らの昔の衣装に似たところがあるからである。

 私は、昔の事態とこの新しい事態との対照を示すスケッチ(最初の画像)をお送りする。ひとりの人物は、ヨーロッパの影響を受けない、以前のままの服装を示している。その青い木綿でできたゆったりと体に合っている上衣は、その背面にある奇妙な形もしくは文字を染め出してあるが、昔の紋章をつけたものかとも思われる。彼の頭のてっぺんは剃られ、小さな弁髪の房は、真上に置いた小型の大砲のような外観を呈している。両足ははだしで、靴の代わりに藁のサンダルをはいている。この男をこの絵のなかの他の人々と比べてほしい。これらの人々はいずれも横浜でありのままをスケッチしたものである。グレンガリ帽をかぶった紳士は完全に姿を変えてしまったが、いかにも完全なので誰しも彼がヨーロッパ人だと思うであろう。彼のポケットにはアルバート型の時計鎖と時計がはいっているが、おそらくは横浜の政庁のどこかに属する官員なのであろう。もう一人の人物は広ぶち中折帽をかぶり、靴をはいているが、――これは上の端と下の端だけが変わったのに、その間は全部日本風なのである。ひとりのもっと年配の男がこの絵に見えているが、彼はインヴァネス・ケープを採用したのである。――今は冬であり、このケープは暖かい衣料品である。――しかし、彼はなお、昔風の髪型を保っている。一番右の端の人物は警官である。当地の警官隊は陸軍風の恰好をした小ざっぱりした黒い服装をしており、肩章はアメリカの模範に従っていることを暗示している。帽子は色は黒いが、明らかにインドのトピーを模倣したものである。

 前にも述べたように、女の人々には今のところ変化が見られないが、しかし、日本社会のかなり上流階級に属する婦人たちについては、彼女たちがヨーロッパの婦人の衣装の秘密を問い合わせつつあるとの噂がある。日本の女たちの絵画的な服装がたどる運命については、ほとんど疑う余地がない。
引用終り
posted by 小楠 at 08:55| Comment(4) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
この記事へのコメント
明治の文明開化で服装も洋装になったというのは、漠然と言葉でわかっていただけだと気づきました。こんなふうに、過渡期にはいろいろな姿があったわけですね。とても面白いです。
Posted by milesta at 2007年06月09日 20:18
milesta 様
最初はなんとなく部分的に取り入れていったようですが、トータルでないとおかしいというふうには思わなかったのですね。
そういえば今の茶髪や金髪もどこか似合わないのは、やはり顔つきから替えないとだめなのでしょう。
Posted by 小楠 at 2007年06月09日 20:57
江戸幕府から明治政府へ変遷したごく僅かの間にものすごい変化と“進化”を遂げたんですね。改めて驚きました。しかも血生臭いことも起こらずに。何でも受け入れることが出来る“能力”が元々備わっていたから可能だったんですね、天賦の才ですね。現代でも引き続いています。
これが支那大陸だったら虐殺の虐殺で却って“退化”しちゃうんですが・・・(笑)。
Posted by k at 2007年06月10日 16:34
ケイ様
これほどの国の大転換が大混乱にならずに成就されたことは、世界でも瞠目の出来事だったのでしょう。
当時の諸藩の大名も、ほとんどが日本国の独立維持ということを真剣に考え、自己の利益を度外視した結果です。
今、このような政治家、官僚がどれほどいるんでしょうか。
Posted by 小楠 at 2007年06月10日 21:03
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