明治維新のニュース
昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は横浜の出入り口の門、門に見える3人は薩摩出身の兵士。

引用開始
1868年1月11日号
上海からの報告は、日本で革命が起った旨を伝えている。タイクン[徳川慶喜]は辞職[大政奉還]したといわれ、この変革のひとつの結果として、外国人に対する新たな諸港の開港は、おそらく2、3ヶ月遅れるものと思われる。
1868年1月18日号
国内の内乱に関しては、現在のところ、帝国政府は今後ミカドのもとに、ダイミョウすなわち貴族層の協議機関をおくことによって運営されていくであろう、との話である。帝国の首都キアト[京都]には争乱が起っているとの噂がある。
1868年3月7日号
この国は明らかな混乱状態にある。内乱が生じたのは外国人に対して最近行われた数々の譲歩の結果であるが、この譲歩政策については、半独立的な領主たちが中央政府と意見が合わないのである。
中央政府についていえば、「シャグーン」[将軍]が積極的でしかも目に見える首長であるのに対して、「ミカド」[天皇]は形式上の首長なのである。若いミカドはサツマ[薩摩]、チョイス[長州]及びソソ[土佐]という帝国の3大領主によって捕縛され、1月25日[慶応4年1月1日]付の報告書発信日現在では、捕虜としてなお彼らの手中にあるとのことであった。
香港で2月12日[慶応4年1月19日]に受取った情報によれば、連合したダイミョウたちとショウグン・ストツバシ[一橋慶喜]との間の争いが継続中とのことである。・・・
1868年4月11日号
アレキサンドリアで受取った情報によれば、日本における内乱は終った。3人の有力なダイミョウ――すなわち、薩摩と、長州と、ゾザ[土佐]――がミカドのもとに政権を握った。
1868年5月2日号
先月7日[慶応4年3月15日]までの日本からの情報によれば、英国公使ハリー・パークス卿は、ミカドを訪問し、ミカドによって好意的に迎接を受けた。その帰路、パークスは一団の日本人に襲撃を受け[正しくは明治元年2月晦日襲撃を受け、3月3日初めて朝見]、付添の者数人が負傷した。襲撃者のうち3人が捕えられた。
1868年8月22日号
日本からのニュースによると、ストツバシはふたたび将軍職につくよう申出でを受けたが、その地位を拒んだという。彼は外務大臣になるだろうとも報じられている。
1868年9月19日号
日本はまたもや不安定な状勢にあり、大がかりな軍隊が北進しつつあるが、これまでのところ戦闘は起っていない。
1869年1月9日号
香港からの短い電報によると、日本ではミカドの権威が完全に確立された[明治元年9月8日改元]。彼は江戸に居を定めた。
1869年1月23日号
横浜発、先月16日[明治元年11月3日]付の横浜からの電報によれば、ハコダディ[函館]は7隻からなる反乱軍艦隊によって攻囲され、そして占拠された[明治元年10月、榎本武揚五稜郭に拠る]。イギリスおよびフランス軍艦が外国人社会を保護するためハコダディに進んだ。しかし、外国人社会はなんら撹乱されなかった。
1869年6月5日号
5月11日[明治2年3月30日]に日本から香港で受取った情報によれば、ハコダディを占拠した反乱軍をうつため、強力な海軍力がミカドの政府によって送られつつある。反乱軍はフランス士官たちの支援を得ているといわれている。・・・
1870年1月1日号
横浜からは12月2日[明治2年10月29日]までの情報がはいった。ミカドはタイクン[徳川慶喜]とアイジォ[会津]の領主[松平容保]に完全な恩赦を与えた。日本人の間に英国公使暗殺の陰謀があったが、未然に発覚し、挫折した。
10月30日[明治2年9月26日]付の『ジャパン・ガゼット』紙によると、ミカドはオーストリア皇帝から派遣された使節に仁慈ある迎接を賜った。英国女王陛下の公使によって道はすでに固められているので、このオーストリアの特命全権公使男爵フォン・ペッツ提督は、その目的としてきた条約[日墺洪修好通商航海条約]の締結には、なんらの不都合もなかった。条約は18日[明治2年9月14日]に署名され、閣下は20日に江戸城に入ることを許され、随員とともに正式に陛下の迎接を受けた。
引用終り