クリミア戦争の知らせを受ける
1854年9月16日号付録
昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は長崎でのボートの配置

引用開始
英国軍艦ウィンチェスター号は、時あたかも女王陛下[ヴィクトリア、在位1837―1901]の誕生日に当る1854年5月24日、香港に入港、郵船の船長から女王の宣戦布告文(クリミア戦争)を読み聞かされた。ウィンチェスター号は上海に赴任するサー・ジョン・ボウリング総督を揚子江口まで送った。・・・南京と上海のほかに、サー・ジョンは日本をも訪問したいと望んでいる。
ロシア人はすでに日本に到達し、なんらかの条約を結んだと伝えられる。ロシア人の朝鮮での殖民も近づき、彼らにとって日本との友好関係の樹立は、たいへん重要であろう。
すでに宣戦のあった以上、われわれは、これらの地域からロシア人を駆逐しなくてはならない。アメリカ人はすでに日本人に説いて、彼らの排他的な反社会的慣習をいくぶんゆるめさせた。彼らは丁重に応援を受け、1マイルに及ぶ鉄道[実は模型]や有線電信を敷設し、幾千の観衆の目をみはらせた。アメリカ人のこうした精力的な活動は大いに信用を博するに値するが、だからといって彼らに貿易の独占を許してはならない。
合衆国の快速警備艇ヴァンダリア号がこのほど日本から到着した。ペリー提督もいた。条約はかなりうまく進行していた。ひとつの港が開かれ、もうひとつも18ヶ月以内に開かれるはずである。・・・・
英国艦隊の日本到着
1855年1月13日号
9月7日英国軍艦ウィンチェスター号、蒸気艦エンカウンター号、バラクーダ号およびスティクス号は、日本の長崎港外に投錨した。・・・
数艘の小船が、おのおの12人の男たちを乗せてきて、港のはるか外で艦隊と遭遇したが、おのおのそのへさきにある木造の屋根の上に、2、3人の男が立って、竹を通したさまざまな白旗を振っていたが、それは艦隊を追い払いたがっているように思われた。・・・・
港務長、知事[奉行]の副官および税関の検査官が17名の付添いといっしょに旗艦の艦上にきた。付添いの者はみな2本の刀を帯びていたが、刀はいずれもかみそりのようにきらめき、鋭利で、しかも最高の出来ばえであった。彼らはこれらの刀をスケッチしたり、じろじろ見たり、あるいは手でさわったりされるのさえも嫌がった。
役人たちは艦長室に通され、その場で提督が上海から伴ってきたオト[乙吉]という日本人の仲立ちで会話が始められた。この男は、20年以上も前に貿易用のジャンク船で遭難し、イギリスにも行ったり、故ギュツラフ博士やその他の宣教師の臨時雇いになったり、といった人生の転変を経て、今は上海のデント・ハウス社のビール氏の倉庫管理人になっており、多額の金を貯えている。日本人は彼を上陸させようと考えたが、彼には上海に妻と子供たちがいるので、英国旗の保護下にいたほうがいいと言った。・・・
彼らは提督の正確な地位を尋ねた。港の規則に従って艦隊が碇泊したことはよいことだ、と彼らは言った。彼らは提督が皇帝にあてて敬意を表し、かつ演習のため兵士たちを上陸させる場所を求める手紙を受け取った。・・・・
提督は、艦隊のために食料を買いたいといった。しかし日本人は、彼らの法律が何物なりと売買することを厳しく禁じているのだ、と言った。しかし彼らは水や、その他要求されている新鮮な食糧や野菜を供給するつもりであった。9月9日には3艘の小船が舷側にやってきて、3匹の豚、42羽の鶏、米俵8ぱいの梨とさつま芋、それに幾束かの大根と玉葱、1籠の卵をもたらした。・・・
提督は港外の島々の、引っこんで砂のある入江で魚を取るために地引網を引いてもいいか、と尋ねた。彼はそれを許されなかったが、それでは魚も届けようということになった。6ないし7籠の立派な魚――鯛の一種、ぼら、かれい類――が22日に受領された。
27日、ウィンチェスター号の艦長イメ氏と砲術係副官のブッシュネル氏は一艘のボートに乗って島々のまわりを帆走しに出かけた。この港の通路や防備を探索し、検討するためである。結果は上首尾で、良質の石炭が豊富に存在し、実際に外側の島の2つの炭坑から200ないし300トンもの量が掘り出してあるのを発見した。
・・・日本人に若干量を艦上に運んでほしいと懇願したが、はじめのうちは彼らはそんなものは知らぬ、といっていた。彼らは提督がそれを見てきたと知ると、あそこはある大名に属するもので、長崎の知事は彼に干渉することはできない、といった。
引用終り
やはり困っている相手にはすぐに同情してしまうという日本人の心情は、今もそのままですね。
けど、これも相手によって考えないと、隣の国のように、恩を仇でかえされてしまいますからね。